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「Rule the Waves 3」プレイ日記:日本不拡大プレイ 第5回

Rule the Wavesシリーズ

海軍戦略・戦術シミュレーションゲーム「Rule the Waves 3」を日本で、領土を拡大しない縛りを設けて遊んでいくプレイ日記第5回。今回は1896年、ロシアとの戦争から。

前回:日本不拡大プレイ 第4回

第1回はこちら。

日本不拡大プレイ各回リストはこちら。


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1896年

1月

ロシアと開戦したことで、日本海軍は一刻も早く戦力を整備し、ロシア極東艦隊を撃破しなければならない状況に置かれました。現在は常磐型装甲巡洋艦2隻を建造中ですが、建造期間はまだ14か月ほど残っており、今後の海戦で損傷する艦の修復費も考えると、現実的には就役までおよそ18か月、1年半ほどは最低限かかると考えられます。

1894年末に水雷艦(後の駆逐艦)整備の有効性を提唱したある海軍士官の正しさは、春風型駆逐艦の設計承認をもって、およそ1年の時を経て海軍上層部にも認められた。しかしその海軍士官は、ロシアとの開戦前に水雷艦が整備されていればと悔やんだという。(……という脳内設定)

一方、現在建造できる300トンの駆逐艦は、イギリスで建造すれば7か月で竣工し、1隻の月あたり建造費は141。常磐型装甲巡洋艦2隻の建造費4,168でおよそ30隻建造できる計算です。

上の画像の春風型駆逐艦は、魚雷発射管と3インチ砲それぞれ1基ずつと兵装は貧弱、航続距離Short・機関Speed・居住区画Crampedと船としての性能も劣悪ですが、速力だけは30ノットと、この時代の艦艇としてはずば抜けて高速にしてあります。足の速さを生かして敵戦艦に接近、雷撃で敵戦艦を撃破するという艦隊の矛の役割を担うことを想定しています。

常磐型装甲巡洋艦2隻と春風型駆逐艦30隻なら、後者のほうが戦力化も早いですし、より戦局を有利にできるはずなので、常磐型装甲巡洋艦の建造を中断し、浮いた費用で春風型駆逐艦の建造を行うことにします。

しかし半分近くまで建造が進んだ常磐型装甲巡洋艦2隻を廃棄してしまうべきかというと、判断が難しいところです。私の「もったいない」思考ももちろんあるのですが、春風型駆逐艦だけあればロシア艦隊に勝てるわけではなく、さまざまな役割を担う艦艇が揃って初めて春風型駆逐艦も真価を発揮できるのであり、装甲巡洋艦が5隻しかない現在、常磐型装甲巡洋艦も最終的には必要になるはずですから、建造「中止」ではなく「中断」として、最終的には就役させたいと考えています。

一方で、春風型駆逐艦を優先して建造する場合、常磐型装甲巡洋艦は就役が半年以上遅れることになります。1894年6月の設計から既に1年半が経過し、ここからさらに就役まで2年以上(1年半+駆逐艦建造による中断期間半年超)かかるとすると、就役時に既に3年半前の設計となっている装甲巡洋艦を就役させることにどれほど意味があるのかという問題があります。また、常磐型装甲巡洋艦1隻あたりの建造待機費用は164で、7か月あれば春風型駆逐艦がもう1隻建造できます。常磐型装甲巡洋艦2隻の建造を7か月延期することと駆逐艦2隻の建造を諦めることが釣り合うのでしょうか。

いろいろ考えましたが、やはり常磐型装甲巡洋艦の建造を中止するのではなく中断として、春風型駆逐艦就役の後に建造を再開して就役させることにしました。装甲巡の追加建造はいずれ必要になるはずですし、春風型駆逐艦就役後に装甲巡を新規設計・建造するよりも、既に半分ほど進んでいる常磐型の建造を続けたほうが早く戦力化できるためです(そのときまで日本海軍が存在していればですが)。

というわけで、まずは春風型駆逐艦の設計を承認し、設計を開始させます。設計期間は1か月。建造遅延がなければ、春風型駆逐艦は1896年9月に就役予定。その後の訓練も考慮すると、戦力化は最速で11月の見込みです。それまでの10か月間は現有戦力で凌ぐ必要があります。

津軽海峡海戦(1896年1月28日10:30)

1896(明治29)年1月28日10:30ごろ、津軽海峡西部で海戦が発生。日本側戦力は第2戦隊・第3戦隊・第1水雷戦隊・防護巡「浪速」「畝傍」・装甲巡「八雲」の計9隻。

対するロシア艦隊は装甲巡3・防護巡3の計6隻。今回も戦力としてはこちらが優勢な海戦となりました。

しかしながら好事魔多し。戦闘開始2時間後の12:30頃(戦闘ログの時刻は世界標準時なので現地時刻と時差があります)には第2戦隊旗艦「磐手」が立て続けに命中弾を受け、速力が低下。指揮権を第3戦隊に移し、以後は第3戦隊旗艦「浅間」が指揮艦となります。この頃には既にロシア防護巡3隻は戦場を離脱し、日本艦隊とロシア装甲巡3隻の戦いとなっていました。

その後、13時過ぎにはロシア艦隊からポルカン型装甲巡が脱落。戦果を確実にするため、このポルカン型を追撃。14時半頃までにこのポルカン型は停止しました。ポルカン型追撃の間に残るヴォーイン型2隻は戦闘を離脱。追跡したものの、発見することができないまま海戦は終了しました。

戦力的に優勢だったので装甲巡を撃沈できたのは通常考えられる戦果ですが、そんな状態にもかかわらず「磐手」が大破させられているのはよくありません。艦長の田蒲大佐がBelow averageなので、折を見て交代させたいところです。

VP差は191。

2月

海戦で勝利しても封鎖によってロシアがVP220を獲得するため、VP合計ではロシアに大きく負けています。どうにか早いうちに挽回したいところです。

2月初頭の北東アジア海域のロシア艦隊は戦艦11・装甲巡5・防護巡9・コルベット4。ロシア側は隣接海域に巡洋艦を待機させているので、巡洋艦を細々と撃沈しても影響は知れています。やはり戦艦をどうにかしないと封鎖状態の解除は困難でしょう。

春風型駆逐艦の発注

計画に従い、常磐型装甲巡洋艦「常磐」「吾妻」の建造を中断し、春風型駆逐艦「春風」「夏風」「秋風」「冬風」「朝風」「夕風」「海風」「山風」「浦風」「江風」「磯風」「浜風」「峯風」「澤風」「沖風」「島風」「灘風」「汐風」「波風」「沼風」の計20隻をイギリスに発注。4隻で1個駆逐隊を編成し、各戦隊に割り当てる予定です。

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礼文島沖海戦(1896年2月24日07:00)

ロシアが北海道への上陸作戦を準備しているとの報。

ロシア艦隊のこの動きを察知した日本海軍は第1・第3戦隊、第1・第2水雷戦隊、他戦艦3・装甲巡2・防護巡2、計15隻を出動させ、1896(明治29)年2月24日、礼文島西方沖で北からやってくるロシア艦隊と接敵(RtW3では礼文島・利尻島などの島は省略されてしまっているようです……)。

午前8時には前衛の巡洋艦部隊と交戦。既に戦闘隊形を組んでいましたが、上陸部隊の捜索を優先してさらに北上します。

10:30頃までにロシア艦隊の本隊、ロシア上陸部隊の輸送船を発見。ロシア極東艦隊の戦艦11隻すべてが出動してきていました。対する日本艦隊は戦艦5・装甲巡4の9隻による戦列で対抗。風は西南西で、戦力では劣るものの、状況はやや有利。しかし敵戦艦戦列と交戦を始めてすぐに戦艦「敷島」が機関トラブルで速力低下。後続部隊が十分な速力を出せないまま、東進しつつ砲撃戦を行います。

11:30頃になるとロシア側の戦艦戦列が綻びを見せ始め、敵戦艦の一部に砲撃を集中させることができるようになります。

12:30頃には北海道北部西岸(天塩沖)に到達。この頃になるとロシア戦艦部隊は完全に戦列を崩し、混乱状態に陥ります。

ロシア戦艦部隊のさらに北方にいるであろう上陸部隊輸送船団襲撃のため、日本艦隊は混乱の隙をついて12:40頃に北に転針。ロシア戦艦部隊のすぐ西側を、ロシア艦隊に砲撃を浴びせながら北上していきます。

もちろんロシア戦艦部隊もこれを放置せず、北上しながら2,000~3,000ヤードほどの射程での同航戦となりますが、先に書いたように風は西南西のため、日本艦隊は有利な状況で砲撃戦を展開。13:45頃までには北の輸送船団を攻撃することに成功しました。

今回の海戦ではまさにここが勝敗の分かれ目で、機関の調子が悪い「敷島」以下7隻もきちんと追従してこれていましたが、ここで日本艦隊の艦列が瓦解していたら無残な敗北に至っていたでしょう。

日本艦隊のさらに西方にはロシア巡洋艦部隊が位置しており、14:10頃には西側からロシア装甲巡戦隊が砲撃を浴びせてきましたが、その頃には既に東側のロシア戦艦部隊は速力不足で日本艦隊を追いかける形となっていました。これもタイミングよく挟撃の形になっていたら、非常に厳しい戦いを強いられていたはずです。

敵上陸部隊輸送船団は数としては多くなく、稚内西部沖で7隻を確認(戦闘結果では8隻存在していたとのこと)。うち2隻しか撃沈できませんでしたが、上陸を諦めて撤退させることには成功しました。

敵上陸部隊を撃退した後は、ロシア戦艦部隊とロシア巡洋艦部隊が合流しようとしていたため、これを阻止すべく14:30ごろ南に転針。再びロシア戦艦部隊のすぐ西側を南下していきます。この頃にはロシア戦艦部隊の先頭の艦が速度低下を起こしており、西に向かうロシア巡洋艦部隊を追いかけようとしますが、速度不足で日本艦隊に割って入られています。

ただ日本艦隊も無傷というわけにはいかず、15:00頃には旗艦「富士」の機関に海水が侵入し、速力が大幅に低下。西方の巡洋艦部隊と交戦していた「敷島」に指揮艦を変更します。

速度が低下した「富士」率いる第1戦隊をかばうため、16:00頃「敷島」以下5隻がロシア戦艦部隊10隻との戦闘に加入。北西には依然としてロシア装甲巡洋艦部隊がおり、挟撃になる可能性も考えましたが、同士討ちを警戒したのかそれほど接近はしてきませんでした。

正直に言うと「富士」の速度低下でこの海戦は負けたと思いましたが、この後ロシア戦艦部隊は「敷島」以下の日本艦隊との交戦に乗ってくれた上、ロシア装甲巡部隊も同様に「敷島」の艦列に構ってくれたので、「富士」「八島」は無事に海戦を離脱しました。

その後再び乱戦となりましたが、決定打はないまま夜を迎えることに。夜間になるとロシア艦隊は上陸を完全に諦めたのか、二手に分かれて一方は北上、一方は南下して離脱を始めました。これを追撃し、速度が落ちて落伍したロシア戦艦「ポルタヴァ」(見づらいですが上の画像で一番上のロシア戦艦)を北海道北西岸で捕捉。19:10頃に「初瀬」が魚雷を命中させてこれを撃破することに成功します。

さらに北上する敵戦艦部隊を追撃するも、稚内西部沖で「敷島」内部の隔壁が決壊。「敷島」率いる戦艦部隊は稚内港に退避し、礼文島沖海戦は終了しました。

海戦の結果、日本艦隊は浅間型装甲巡洋艦「浅間」と高千穂型防護巡洋艦「高千穂」が沈没。一方、ロシア艦隊は戦艦2隻の撃沈に成功していました。ロシアの北海道上陸作戦も失敗に終わったことで、礼文島沖海戦は開戦以来初めての快勝となりました。

VP差は1,067。大海戦で不利な戦力差を覆して戦艦2隻を沈めることができたからか、一気に大量のVPを獲得できています。

ロシアの上陸作戦は頓挫し、北海道は守られました。

3月

礼文島沖海戦の結果、ロシアによる海上封鎖は解除され、VPでも一気に逆転。しかし差はわずかですし、日本艦隊は貴重な巡洋艦2隻を失っています。このまま勝てると考えるのは早計です。

3月初頭時点での北東アジア海域のロシア海軍は戦艦6・装甲巡2・防護巡4・コルベット3。これには修理中の艦艇は含まれないので、修理が完了すれば戦艦9・装甲巡5・防護巡9・コルベット3程度まで回復すると思われます。日本海軍も修理中の艦艇を含めると戦艦5・装甲巡4・防護巡5・コルベット4で、依然としてロシア側が相当有利な戦力比となっています。

第二次津軽海峡海戦(1896年3月28日10:00)

1896(明治29)年3月28日10:00頃、津軽海峡西部で再び海戦。日本側は「浅間」沈没で1隻のみとなってしまった第3戦隊、第1・第2水雷戦隊の計5隻。

対するロシア側は装甲巡1・防護巡3の計4隻。戦力では優勢です。

風上をとって十分有利に戦ったつもりですが、こちらからはなかなか決定打が出ない反面、ロシア装甲巡からの砲撃でたびたび舵が破損し、主砲の弾詰まりも繰り返すなど、精彩を欠く戦いぶりとなってしまいました。結局「出雲」は19時過ぎに函館港に退避し、足の鈍っていたロシアのヴォーイン型装甲巡は最終的に防護巡で撃破。また、ロシアの防護巡に魚雷を命中させましたが撃沈には至らず逃げられています。

最終的にこちらは喪失なし、ロシアのヴォーイン型装甲巡1を撃沈。防護巡も撃沈できればよかったのですが、装甲巡を仕留めている間に逃げられました。

VP差は398。

4月

日本海軍の出動可能な艦艇が少なくなりすぎたことで40VPを喪失。

それでもVP差をさらに拡大することに成功しています。

4月初頭時点でのロシア側戦力は戦艦8・装甲巡3・防護巡7・コルベット3(修理中除く)。これまでに戦艦2・装甲巡2・防護巡1を撃沈しています。

ロシア海軍首脳は極東での思わぬ被害を憂慮したのか、気づけばインド洋にロシアの戦艦2隻、南アフリカに装甲巡1隻が派遣されていました。おそらく北東アジア海域まで回航している最中なのでしょう。バルト海には戦艦5隻とコルベットのみで、それ以外のほぼすべての艦艇が北東アジア海域に集結しつつあります。到着までに少しでもロシア極東艦隊の戦力(特に戦艦)を削っておきたいところです。

海軍士官の決闘

そんな中、戦艦「八島」艦長の松原大佐と待命中の長見中佐が軍規に反する決闘を行ったとのこと。特に松原大佐は敢闘精神に富む優秀な海軍士官ですし、失うのは大きな痛手ですが、軍規違反を見過ごすことはできないので、両名を軍法会議にかけて予備役に編入します。まったく戦争中になにをやっているのか……。

船体強度計算の改善

船体建造技術「船体強度計算の改善」を獲得。船体重量が1%減少します。

ロシアの通商破壊戦

封鎖ができなくなったためか、ロシア艦隊は装甲巡で通商破壊を実施。日本の商船1隻が沈没。できれば対応したいところですが、通商護衛に艦を回す余裕がありません。

第二次礼文島沖海戦(1896年4月12日午後)

2月下旬の上陸作戦が失敗したロシアですが、日本海軍が弱体なのを見て再び北海道への上陸を企図。2月と同じく日本海軍も戦艦2・装甲巡1・防護巡2(これが4月時点での稼働戦力のほとんどです)を出動させ、礼文島沖(北海道北西沖)で接敵します。

今回もまた録画を途中まで忘れていますが、2月の戦闘とは違って今回は北東アジア海域のロシア艦隊全力出動というわけではなく、わずか戦艦3・装甲巡2(上の画像には映っていませんが北西方向にいます)・防護巡3という戦力。敵戦艦の動きも鈍く、日本の主力部隊は容易に敵艦列の後ろをすり抜けて上陸部隊の輸送船団に突入し、15:00頃までにほとんどを撃沈できてしまいました(上の画像の沈没跡)。

その後、北東に逃げる敵戦艦部隊を追跡し、20:45頃には西進しながらの同航戦。この中で敵艦列から日本の艦列にロシアのグロモボーイ型装甲巡が突撃。雷撃を狙っていたのか単に砲撃から逃れようとしたのかは不明ですが、日本艦列最後尾の「八雲」の後ろを南に抜けたところで、「八雲」の魚雷が見事命中。さらには命中箇所が弾薬庫で、グロモボーイ型装甲巡は轟沈と相成りました。

その後もロシア戦艦部隊との砲撃戦は続き、22:00頃には最後尾のレトヴィザン型戦艦が速度低下で落伍。こちらもこれ以上敵戦艦部隊を追跡する速力は出なくなっていたので、追撃を諦めてレトヴィザン型に攻撃を集中。23:00頃までに撃破を確認しました。

その後も哨戒を続けましたが接敵せず、これで海戦は終了。

戦力面では不利でしたが、終わってみれば敵上陸船団は全滅、さらに戦艦1・装甲巡1を撃沈という堂々たる勝利に終わりました。

今回の海戦を「第二次礼文島沖海戦」と命名。

VP差は1,614。第一次礼文島沖海戦よりさらに大きな勝利と言えるでしょう。

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5月

水密区画・ダメージコントロール技術「水密完全性の改善」を獲得。ダメージコントロールが少し改善します。

ロシアの通商破壊

先月と同じロシア装甲巡「パーミャチ・アゾーヴァ」が日本商船3隻を撃沈。

イタリアの技術奪取

防諜担当部署によると、イタリアが日本の魚雷技術を盗み出したとのこと。

ナホトカ沖海戦(1896年5月28日07:00)

これまで防勢に立たされて続けてきた日本海軍は、第二次礼文島沖海戦の戦果を見て一転、敵海軍基地の襲撃を計画。装甲巡1・防護巡4という戦力で出撃することに。1896(明治29)年5月28日07:00ごろ、ウラジオストク東方のナホトカ沖でロシア商船を撃沈します。

もちろんロシア海軍はこれを黙って見ているはずもなく、装甲巡1・防護巡3が出動。ナホトカ沖で海戦になります。

形勢有利のまま戦えると思った直後の09:00すぎ、突如として装甲巡「阿蘇」のエンジンが破損し、速力が12ノットまで低下してしまいます。機関一杯での航行を続けたことが原因のようです。さらに防護巡への信号誤認がたびたび起こり、敵部隊と「阿蘇」が1対1となる局面がしばしば発生。結局まともに敵部隊と交戦することはできず、どうにか敵部隊の攻撃をやり過ごしながら函館港に向けて退避することに。

艦の喪失はありませんでしたが、作戦目標も達成できず、敵艦にもまともに損害を与えられないまま海戦終了という失態を演じました。

VP差は-107。

6月

ロシア側から中立国を通じて国境変更や賠償金なしの講和交渉の打診があったが、首相になんと助言するかというイベント。現状優勢ではあるものの薄氷を踏むような状態には変わりないので、威信を失いますが「我々は戦争を終わらせることに賭けるべきです」を選択。

しかし最初の講和交渉ということもあってか、交渉妥結に失敗します。

対馬沖海戦(1896年6月19日17:30)

1896(明治29)年6月19日17:30ごろ、対馬沖で海戦が発生。日本側戦力は第2戦隊(装甲巡2)・第2水雷戦隊(防護巡3)。

対するロシア側も装甲巡2・防護巡3という陣容。風は南風なので、常に敵の南側に位置するように気を配ります。

17:30ごろからおよそ4時間半にわたって砲撃戦を行い、22:00頃には旗艦を務めた装甲巡「八雲」の損害がいよいよ無視できないものとなったため、戦闘から離脱させることに。

夜になって敵部隊はバラバラになりますが、装甲巡「出雲」を中心に日本側の計4隻はロシア装甲巡を執拗に追撃。23:30頃には朝鮮半島南東部沿岸に追い詰めるも、うまくすり抜けられて逃げられます。

このとき交戦した敵防護巡(上の画像左側の駆逐艦と誤認されているもの)は練度が高かったのか、この防護巡と主に交戦していた防護巡「千島」が毎分複数発の命中弾を浴びることに。幸いにして大きな被害にはつながりませんでしたが、このまま交戦し続けていたら危険な状態になっていたでしょう。

翌20日01:30頃には、ロシア装甲巡2隻が再び戦列を組んで朝鮮半島南東部沿岸に出現。南に向かいながらこれと交戦し、2隻の戦列の後ろ側だったヴォーイン型装甲巡(上の画像左上)に砲撃を集中させて速度を低下させることで、先導していたグロモボーイ型(上の画像右側)と分離することに成功します。

しかしその後、日本側部隊の南東部に消えたグロモボーイ型の近くに先ほど離脱させた「八雲」がいることに気づき、北上するヴォーイン型への攻撃を中止して「八雲」の援護に向かいました。

翌朝07:00にはいつの間にかはぐれていた防護巡「千島」が対馬東部で敵部隊を発見しますが交戦せず、ここで海戦は終了。

日本側は戦闘に参加した装甲巡が2隻とも大破というひどい状態ですが、ロシア装甲巡1隻を撃沈することに成功していました。追撃を中断して見逃していたヴォーイン型が港までたどり着けず沈没していたようです。

ヴォーイン型が沈んでいてくれたおかげでどうにか面目が立ち、VP差は447。


回ごとの区切りはきりよく暦年の区切りとしたいのですが、戦争中のため書くことが膨大にあって長くなってしまったので、今回はここまでとします。1896年上半期はどうにか優勢なまま終えることができましたが、ロシア艦艇も経験を積んで練度が上がってきているように感じられます。この後9月には駆逐艦が就役予定ですが、そこまで決定的な破綻なく耐え切れるのか、そして駆逐艦が揃った後はロシア戦艦部隊に痛撃を与えられるのかが問われることになるでしょう。次回は1896年下半期、引き続きロシアとの戦争を戦っていきます。

次回:日本不拡大プレイ 第6回

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コメント

  1. この時期の対ロシアは、表面的には如何に圧倒的劣勢な中で北海道を守るかになりますよね
    礼文沖海戦素晴らしい、これをこの結果に持って行ったことで駆逐艦の就役までかなり時間を稼げた
    航続距離のせいでロシアは駆逐艦持ってこれないから、ここからが反攻の時!

    • > 航続距離のせいでロシアは駆逐艦持ってこれない
      まったく考えていませんでしたが、確かにそうですね。
      ロシア側に駆逐艦がいない中でこちらの駆逐艦がどれほど戦力になるのか、期待と不安が半々ですが、いい結果につながってほしいところです。

  2. 連戦連勝なのに綱渡りというのは強国と新興国の対決らしさがあり読んでいて飽きないです!

    • ありがとうございます!
      プレイしている私としては下手するといきなりプレイ目標失敗になってしまうので戦々恐々としながら遊んでいますが、プレイ日記を楽しんでいただけているならその甲斐があります。次回もお付き合いいただければうれしいです。

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