CK2に登場する唐には阿倍仲麻呂のように渡唐した後そのまま仕官した日本人がいました。そういう設定でキャラを作ってプレイできないかという点から、いろいろ集めた情報をまとめてみました。
概要
CK2には日本は登場しないため、もちろんそのままでは日本人キャラクターでプレイすることはできません。ただ当時の日本の朝廷は唐に遣唐使を送っており、阿倍仲麻呂のように渡唐した後そのまま唐朝に仕官した人物もいました。
そこで、「遣唐使として渡唐した後に仕官し、なんらかの理由で安西大都護府に派遣された」という設定をつければ、日本人キャラクターとしてプレイできる(もちろんゲーム中にそんな文化や人種は設定されていないのでそう思ってプレイするというだけですが)のではないかと思いつき、どういうバックボーンがあればそれらしい設定になるのかということを考えるためにいろいろと調べてみたことをまとめたのが本記事です。
なお、調べた結果は大部分がWikipediaによるもので、歴史的正確性についてはあまり考慮していません(もちろん不正確な情報は取り上げないようにしてはいますが)のでその点ご承知おきください。
まとめ(後編の内容も含む)
- 第12次か第13次の遣唐使に随行して来唐(769年のゲーム開始時26~36歳)
- 来唐後は国子監の学校である四門学(儒学)か律学(法律)に入学
- 科挙は明経科(四門学出身の場合)か明法科(律学出身の場合)で及第
- 吏部試も無事に合格して官職を得た
- 藤原清河―阿倍仲麻呂―李白―郭子儀―郭昕(CK2におけるProtector General Guo Xin)という伝手で(『警世通言』のエピソードを使う場合)、あるいは貴族出身官僚に嫌われて766年の郭昕の西域巡撫に随行
- 769年までに郭昕の信任を得て西域の一行政区画の長となる(したがってCK2769年シナリオでプレイできる立場にある)
キャラの姓名は、唐名としてそれっぽくて自分で納得できればなんでもよさそうです(当時の日本人の唐名の付け方は調べてもよくわからないので……)。
阿倍仲麻呂について
まずモデルとなる人物は阿倍仲麻呂なので、彼についてアウトラインを見てみますと、
- 717年の第9次遣唐使に同行して渡唐し、太学に学ぶ(同次の留学生として吉備真備など)。
- 科挙に合格し、725年には司経局校書に任官。728年に左拾遺、731年に左補闕。
- 733年の第10次遣唐使で吉備真備らは帰国するが、阿倍仲麻呂は唐に残留。
- 752年に衛尉少卿となり、また第12次遣唐使が来唐。753年に秘書監・衛尉卿となった上で帰国しようとするも遭難。
- 755年には長安に戻るが、安禄山の乱勃発により帰国を止められる。
- 760年には左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使。
- 770年客死。
という経歴。ここから考えると、CK2にキャラクターとして出現させるには、CK2でのシナリオ開始年(ここでは769年とします)までに、1)科挙に合格して官職を得る、2)西域に派遣されるという2点が最低限必要になりそうです。
同じ時代に第12次遣唐使で大使を務めた藤原清河も唐朝の官吏に登用され、秘書監という高官に就いていますが、これは日本にいる段階で既に遣唐大使という高官に上っていたためでしょうし、モデルにはしにくい人物でしょう。
キャラクターの経歴を考える
では、実際にゲーム中でルーラーデザイナーを使って作成するキャラクターの経歴を細かく考えていくことにしましょう。
いつ来唐するのか
769年時点で既に唐において官職を得て西域にいなければならないので、少なくとも759年出発の第13回遣唐使以前で来唐していなければなりません(次に入唐できた遣唐使は777年発の第16次)。
また、阿倍仲麻呂は718年に到着した後、最初の官職である司経局校書に就くまで7年かかっていますので、官吏となった後に西域に派遣されなければならないということも考慮して769年から10年以上前に来唐したとすると、759年発の第13次遣唐使、752年発の第12次遣唐使、そして733年発の第10次遣唐使(第11次は中止)で来唐する必要があります。
ただ第10次で来唐したことにすると、10代後半で渡唐した(阿倍仲麻呂は19歳、あるいは16歳で渡唐)としてゲーム開始時点で既に50代になってしまいますので、残る候補は第13次と第12次。第13次で16歳のときに来唐したとすると生年は743年、769年時点では26歳。第12次で19歳のときに来唐したとすると生年は733年、769年時点で36歳。つまりゲーム開始時点で26~36歳程度に設定するのがちょうどよさそうです。
来唐後の経歴
第12次遣唐使は752年中に唐に到着。第12次遣唐使随行者には藤原刷雄(恵美押勝の子)という遣唐留学生がいたようなので、他にも留学生がいたとしても不自然ではないでしょう。
第13次遣唐使は到着年が不明。このときの遣唐使はそもそも第12次で入唐した藤原清河を迎えるためのものであり、さらに安禄山の乱による影響で高元度ら11人のみが実際に入唐したらしいので、留学生がいたかというとちょっと微妙なところですが、いなかったという情報は出てこないのでいたことにしてしまっていいでしょう。
どこで学ぶか
来唐後は官吏になるために国子監の学校のいずれかで学んだということにするのが無難でしょう。国子監という教育行政を担う役所には国子学、太学(こちらの論文(PDFへのリンク)によれば、五品以上以上の高級官僚の子孫が学生であったとのこと)、四門学(同七品以上)という儒学を学ぶ学校と、律学(法律)・書学(書体)・算学(算術)という下級官僚や庶人の子弟向けの学校があったようです。
同様にこの論文によると、そもそもの留学生派遣の目的は「初期から延暦(引用者注:延暦年間は782-806年)の遣唐使までの留学生にとっては、明経(儒教)が主要な学問であった(後略)」(p.45)とあり、ここからまず学びに行ったのは儒学であるとするのが自然です。しかしながら「律令国家の初期には、留学生・請益生で法律を学んだ例も見られる」(p.46)として第9次遣唐使の留学生であった大和長岡、第10次遣唐使の請益生(短期留学生)であった秦大麻呂が、ともに法律を学んだ例も挙げています。ということは、彼らは唐ではおそらく律学で学んだのでしょう。
また「吉備真備の場合、出身が下道氏という地方豪族なので太学などには入学できず、四門学教官からの出張講義を受けるという形態をとったものと考えられている。(中略)阿倍仲麻呂の場合、国子監太学で学んでいる(『続日本紀』など)。これは、仲麻呂の父船守が正五位上であり、その出身が唐においても準用されたと考えられている」(p.46)とあり、日本における官位が唐でも準用されたとすると、四門学か律学へ入学したとするのが都合がよさそうです。
科挙
外国人から官吏になるにはおそらく科挙以外の方法は当時はなかったでしょうから、科挙に受かって官吏となったという設定にするのが自然でしょう。唐代の科挙は郷試と省試の2回のみ(再試験である覆試があることもある)で、国子監設置の学校出身だと郷試は免除でいきなり省試から受験できたようです。
唐代の科挙にはまだ科目の別があり、秀才・明経・明法・明算・明書・進士という6つがあったようですが、750年代頃には秀才科が廃止されて明経・明法・明算・明書・進士の5つになっており、明経・進士は国子学・太学・四門学といった儒学の学校、明法は律学、明算は算学、明書は書学と、国子監の学校と対応すると考えてよいに思われます。
進士科がもっとも重視されていたそうですが、非常に狭き門だったようなので、明経科(四門学出身だとするなら)か明法科(同じく律学なら)で受かったとするのがよさそうです。
吏部試
これで晴れて官吏としての資格を得たわけですが、ここではまだ採用候補者名簿に載った段階にすぎず、実際に官職を得るには吏部という人事院のような役割の役所の試験を受ける必要がありました。
当時は官吏の多くが貴族出身だったため、ここで受ける人物試験(「身」「言」「書」「判」)で貴族官僚が人事に介入できた(家格が低い者を採用しないなど)という話が宮崎市定『科挙』に掲載されています(中公新書。119-121ページ)。
さて、ここで当時の在唐日本人有力者として上で挙げた阿倍仲麻呂と藤原清河が挙げられますが、阿倍仲麻呂は760年から安南節度使としてベトナムに赴任中。藤原清河は秘書監になった後の官途が不明ですが、唐が日本に兵器補充を求めた際の人質にもなっていたという説があるようなので、それが正しいとすれば中央の役所に勤務していたことでしょう。
阿倍仲麻呂に続いて科挙に受かったという設定の日本人キャラクターはもちろん藤原清河と同郷のよしみを通じていたでしょうし、清河は当時もそれなりの高官であったと考えられますから、その伝手で吏部試も無事に通過して官職を得られたと考えても不自然ではないはずです。
ちょっと中途半端ですが長くなりすぎるので今回はここまでとして、次回は西域になぜ派遣されるのかという点と、どのような名前にすればいいのかについて検討します。
コメント
自分はこまけぇことはいいんだよとキャラクターをつっこんでますが
こういう設定を考えていくのも楽しそうですね
こういうことを考えてキャラクターを作るのが私は大好きでして、調べ物をしてプレイがなかなか始まらないことがしょっちゅうです……。
その時代の背景知識の整理にもなりますし、けっこうおすすめです。
こういうの良いですね、当時の体制を知れたらプレイにもより身が入りそうです!
自分で調べる気力はないけど読むのは好きです。
シリーズ化しないかなー。
ありがとうございます。そんなにたくさん引き出しがあるわけではありませんが、今後も機会があればこうした記事を書いていこうかなと思っていますので、どうぞお楽しみに!