前回に引き続き、唐の官吏として日本人(という設定の)キャラクターを出すにあたって考えておきたいことをまとめています。
前回:CK2で日本人キャラという設定でプレイすることを考える 前編
キャラクターの経歴を考える(続き)
前回は
- 第12次か第13次の遣唐使に随行して来唐(769年のゲーム開始時26~36歳)
- 来唐後は国子監の学校である四門学(儒学)か律学(法律)に入学
- 科挙は明経科(四門学出身の場合)か明法科(律学出身の場合)で及第
- 吏部試も無事に合格して官職を得た
というところまで設定を考えたのでしたが、ここからどのようにして西域に派遣されるのかを考える必要があります。
そもそも当時の西域はどうなっていたのか
当時の西域には安西大都護府と北庭大都護府という2つの大都護府があり、前者は亀茲(CK2ではKuci)、後者は庭州(ビシュバリク。CK2ではBeshbalik)に置かれていたようです。
安西大都護府は722年に吐蕃(チベット)によって亀茲を含む安西大都護府の行政区画である安西四鎮が吐蕃によって攻略されてしまい(しかしこの記載はWikipedia日本語版のみで、中国語版や百度百科の記事にはなく、こちらでは安西大都護府滅亡まで安西四鎮は維持できていたように読めます)、その後安西大都護府がどこに移ったかは不明ですが、ゲーム中では敦煌(Dunhuang)に置かれています。また、百度百科のページによれば、769年時点では安西都護府(「大」がなくなった)に格下げされていたようです。滅亡時期は明らかではありませんが、Wikipedia日本語版では787年、中国語版では808年となっています(この808年という年は安西大都護であった郭昕の没年とも一致します)。
北庭大都護府は庭州に置かれた後、788年(Wikipedia日本語版。中国語版では790年、百度百科では791年とバラバラ)に吐蕃によって庭州が攻略されると同時に廃止されたようですが、ゲーム中では庭州と思しきBeshbalikは遊牧民の土地となっています。
760年代から長きにわたって安西・北庭両都護府を守ったのが郭昕(ゲーム中では769年シナリオ開始時点のProtector GeneralであるGuo Xin)と李元忠(北魏の同姓同名の人物の記事しか出てこず詳細不明。ゲーム中では769年シナリオ開始時点のCount of YizhouであるLi Yuanzhong)で、両者はそれぞれ781年に正式に安西大都護、北庭大都護に封じられたとのこと。
Protector General Guo Xinこと郭昕は詳しい記事があるので見ていくと、彼は安史の乱鎮圧に大功のあった郭子儀という人物の甥で、当時中書令(実質的な宰相のポジション)に昇っていた郭子儀が766年、河西・安西などの西方への巡撫を行うことを建議し、これによって実際に巡撫に出向いたのが郭昕だったようです。その後はそのまま安西に留め置かれ、李元忠とともに西域の守備にあたったとのこと。なお、郭昕は殉職時(808年の安西四鎮陥落時か?)に武威郡王とされ、後世では「鉄血郡王」という異名がつけられたとあります。
西域行の建て付け
この郭昕のおじの郭子儀ですが、『警世通言』という17世紀の短編小説集に、若い頃に李白に命を救われたことがあり、この縁で郭子儀は安史の乱時に反乱軍に加わった李白の助命を嘆願したというエピソードがあるようです(日本語版Wikipediaでは特に注釈なく書かれていますが、中国語版には李白と交友があったという記載はなく、百度百科で『警世通言』にこうしたエピソードがあるという記載があります)。李白が罪を許されて釈放されたのは759年、762年には亡くなっています。
この詩仙・李白は阿倍仲麻呂と730年代頃から交友があり、753年に唐から日本に帰還する第12次遣唐使船(藤原清河が遣唐大使)で阿倍仲麻呂が帰路に死去したという誤報を聞き、754年に李白がこれを嘆く漢詩を詠んだとされているので、20年近くにわたる交友関係があったのでしょう。
この『警世通言』のエピソードに乗っかれば、新たに作った日本人設定のキャラクターが当時長安にいた藤原清河を経由して阿倍仲麻呂―李白―郭子儀―郭昕という人的関係がつながります。その場合、郭昕が西域に赴いたのは766年のことですから、766年までに唐朝の官吏となって郭昕の西域行に随行したとするのが一番自然でしょう。唐朝の実質的な宰相である郭子儀の恩人である李白の紹介がある外国人官吏という立ち位置になり、769年時点で若くして行政区画の長に外国人官吏が就任するということも不自然ではなくなるでしょう。
『警世通言』のエピソードはあくまで小説の話なので、これを使わずにあり得そうな話を作るとすれば、吏部試に通りはしたものの、阿倍仲麻呂ほど身分が高かったわけではないので貴族官僚に嫌われ、吐蕃との戦いで唐朝の支配が揺らいでいた西域に向かう郭昕の配下につけられたというのが考えられます。
郭昕と郭子儀は地方高官の家の出ですが、少なくとも郭子儀は貴族として出世したわけではなく、武挙から軍人を経由して宰相に昇っているので、貴族出身の官僚から敵視されて(当時は郭子儀が権勢を振るっていた時代なのでもちろん表立って敵視はできないにせよ)どこの馬の骨とも知れぬ外国人官吏が随行につけられた……というのは、まあ不自然というほどではないのではないかと自分を納得させられる理由かなと個人的には思います。
どちらの場合でも、769年時点でどこかの領主になっているというのは、上司である郭昕の信任を得て現地で部将として取り立てられたからということになるでしょう。
まとめ
- 第12次か第13次の遣唐使に随行して来唐(769年のゲーム開始時26~36歳)
- 来唐後は国子監の学校である四門学(儒学)か律学(法律)に入学
- 科挙は明経科(四門学出身の場合)か明法科(律学出身の場合)で及第
- 吏部試も無事に合格して官職を得た
- 藤原清河―阿倍仲麻呂―李白―郭子儀―郭昕という伝手で(『警世通言』のエピソードを使う場合)、あるいは貴族出身官僚に嫌われて766年の郭昕の西域巡撫に随行
- 769年までに郭昕の信任を得て西域の一行政区画の長となる(したがってCK2の769年シナリオでプレイできる立場にある)
キャラクターの名前
長々と新キャラクターの経歴を考えてきましたが、ようやく実際にゲーム中でキャラクターを実際に作る準備ができました……が、ここに来てもう一点、キャラクターの名前をどうすればいいのかがわかりません。
モデルとしている阿倍仲麻呂は、唐名を仲満(これは仲麻呂という日本名から来た唐名なのか、日本名が唐側でこのように記録されたのかは不明)、のちに朝衡あるいは晁衡としていたようですが、なぜこのような名前であるのかは不明。
井真成という遣唐留学生から唐朝の官吏になったとされる人物は、日本での氏族名が「井」という姓につながっているという説があるようですが、これもあくまで学説であって、そうでないという説も。
唐名が明らかな当時の日本人では藤原清河がおり、彼は唐名を河清としていたようです。これも日本名からの転用と考えるのが自然でしょう(なぜ逆転させたのかはわかりませんが)。しかし藤原清河に関する事績の原典とされている『続日本紀』原文を見てみると、藤原清河は「清河」という表記と「河清」という表記両方が掲載されており、「河清」のほうも特に唐名であるという記載はないように見えます(もちろん見落としただけかもしれません)ので、「河清」が唐名であるというのはどこが根拠なのかよくわかりません。
このように見ていくと、阿倍仲麻呂の「朝衡/晁衡」は日本名とは無関係(に見える)、一方で藤原清河は下の名前の上下を逆転した名前、井真成は日本名と関係あるという説・ないという説両方が存在するという状況。こうなるともう素人には判断しようがないので、もう好きな唐名をつけてしまっていいのではないかと思います。
参考までに奈良時代の日本名について調べてみますと、こちらの記事では「~麻呂」が目立ち、また動物名を入れたものも目立つようです。また、あくまでこの記事の筆者の方の推定ですが、誕生した干支にちなんだのではないかとも書かれています。
日本名とまったく無関係とすると逆に考えにくいので、私は日本名を「当時存在した氏族名+生年の干支+麻呂」と設定し、唐名を「氏族名のうちの1字+生年の干支」とし、そのピンインを調べて入力しています。
もっと突き詰めると服装やCoAの設定についてもいろいろとこだわりポイントがありそうですが、私としてはこのあたりで納得してゲームを始めたいところ……。
ゲームが始まった後にCompose Bookのディシジョンで「Annals of (姓)」という書物ができれば、初代の出自がずっと東方の島国であったということが子孫に伝わっていく……なんてことも妄想でき、個人的にはさらに想像が広がって好みです。
このように経歴や出自を詰めていくと、カスタムキャラでもかなり愛着が湧いてゲームも面白くなると思いますが、いかがでしょうか。
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