「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第3回は、引き続きフセヴォロド大首長の治世。今回から2.6.2正式版となります。
前回:キエフ年代記 第2回
792年
ルーシの王
ようやくRuthenia王位を創設。健康はかなり高めだが、50をとうに超えているのでいつ死ぬかヒヤヒヤした。これでとりあえず継承による国家分裂の危機は回避された。
フセヴォロドが大首長となって24年目、フセヴォロドは都・キエフに封臣を集めて「ルーシの王」となることを宣言した。周辺諸国の征服からまだ日が浅く、不快感を露わにする封臣もいたが、フセヴォロドの王位創設に表立って異を唱える者はなかった。フセヴォロドの治世で繁栄を謳歌していたキエフの住民たちは、フセヴォロドの宣言を歓呼の声で受け入れた。
一介の出納役人から25年でルーシの王にまで駆け上がったフセヴォロドは、ヨーロッパ中にその名を轟かせた。最初の妻・ドブラヴァの野心を利用してキエフの実権を握り、キエフの長年のライバルであったマジャル族を滅ぼし、最後には3番目の妻・アイシェとの結婚がもたらした名声で兵を募り、北隣の大部族・ラヂミチ族の征服に成功したのであった。
フセヴォロドはこのとき齢54。世継ぎとなるべき息子も成人し、将来は安泰であるかに思われた。だが、次なる敵は国内にいた。
793年
反乱
かつてのヴォルィニャーネ族首長ブリアチスラフの子・ミスティスラフによる反乱。兵力で勝てないのになんで反乱を……。若さ故の過ちか。
フセヴォロドが大首長となって24年目、王となって2年目、ウラディーミル・ヴォリンスキー首長ミスティスラフは王権の弱体化を旗印に反乱を起こし、盟友関係にあったミンスク首長ヴィシェスラフがこれに追随した。また、内乱2年目にはピンスクで農民反乱が起こった。
だが、フセヴォロドは落ち着いて軍の陣容を整え、名将ツェンイェにキエフの戦士団を預けた。ツェンイェは反乱軍の首魁・ミスティスラフの軍をたびたび打ち破り、返す刀で農民反乱を鎮圧した。
戦は2年で終結し、ミスティスラフは投獄された。だが、フセヴォロドは身代金を取ってミスティスラフを釈放してしまった。これには廷臣たちも驚いたが、フセヴォロドの目は旧ラヂミチ族首長・「軽率なる」スタニスラフに向けられていたのであった。
796年
2度目の反乱
長年のライバル・旧ラヂミチ族首長「軽率なる」スタニスラフによる反乱。威信による兵力動員を当てにしたようだが、王位創設でこちらにも威信はたんまりある。
フセヴォロドが大首長となって27年目、王となって5年目、ミスティスラフの反乱が鎮圧されると、これに慌てたかのように、今度は「軽率なる」スタニスラフが反乱の兵を挙げた。
フセヴォロドはルーシの王としての名声を利用して兵を募り、兵を任された次男・スヴェトザルがチェルニゴフの地でラヂミチ族の大軍を打ち破った。スヴェトザルはそのままスタニスラフの本拠・ロスラヴリを攻略し、スタニスラフを捕えた。
三男イゴールの妻・フセスラヴァ。やはりAmbitious持ちはよくない。
戦の只中で、フセヴォロドは宮廷内の問題に取り掛かっていた。三男イゴールの妻・フセスラヴァがフセヴォロドの暗殺を計画していたのだ。将軍から密偵長に転じていたツェンイェからこの計画を聞いたフセヴォロドは激怒し、フセスラヴァは直ちに捕縛され、地下牢に投げ込まれた。
三男・イゴールは戦地でこの知らせを受け取ったが、「父のやることならば間違いはあるまい」と言って受け入れたという。
だが、これに激怒したのがラヂミチ族よりもさらに北方のスラヴ諸部族のひとつでノヴゴロドに本拠を置くスロヴェネ族大首長・ズビグネフである。投獄されたフセスラヴァはズビグネフの長女であった。
しかしフセヴォロドはこれを一顧だにしなかった。スロヴェネ族との間にはヴャティチ族の領地が横たわっており、直接干戈を交えることはまずないと考えたのだった。
797年
スロヴェネ族との同盟
突然の同盟提案。さすがにびっくりした。
だが、外交上手はズビグネフのほうだったらしい。
フセヴォロドが大首長となって28年目、王となって6年目、スロヴェネ族から使者が来訪した。この来訪にルーシの宮廷は「すわ、戦か」と身構えたが、その使者が言うには、大首長ズビグネフはルーシとの同盟を望んでいるという。
おそらくルーシが南にビザンツ帝国、東にハザール族、西にリトアニアという潜在的な敵を抱えていることをわかっていてのことであろう。そして三男に嫁いできたフセスラヴァの一件。フセヴォロドは使者を歓待し、同盟を受諾する旨回答して使者を帰した。
ズビグネフは飲んだくれであると聞いて侮っていたフセヴォロドはズビグネフの明晰さに感嘆し、自らの不見識を恥じたという。
798年
スロヴェネ族との共闘
領地は大きいのに動員兵力が少ないIlmen(スロヴェネ族)大首長と、領地は小さいが動員兵力が大きいRostov大首長。Bukhal族(右下)の領地で農民反乱が起こっているのも見える。
フセヴォロドが大首長となって29年目、王となって7年目、再びスロヴェネ族から使者が来た。ロストフ大首長を征服するので力を貸してほしいという。
同盟を結んだからにはロストフ大首長に対して宣戦布告せざるを得なかったが、フセヴォロドは兵を出さなかった。東の遊牧民・ブハル族に不穏な動きがあったからであった。
799年
ブハル族の侵略
東のBukhal族から宣戦布告。遊牧民相手の戦争は勝って得るものがないのでやりたくない……。
フセヴォロドが大首長となって30年目、王となって8年目、ブハル族から宣戦布告の使者が来た。
ブハル族は長くハザール族に従ったハンの治める部族であったが、ハザール族の勢力後退に合わせて先代族長バルジチが独立してカガンとなった。宣戦布告はバルジチの跡を継いでカガンとなった甥・チャトンからのものだった。
指揮能力19、側面攻撃、平原の専門家という化け物クラスの相手。しかも動員兵力は6,750……無理では?
チャトンは齢28、アゾフ海沿岸の草原地帯では並ぶものはない武勇を持つ人物で、堂々たる体躯、燃え盛る野心、そして草原にあって赫々たる武勲で知られた当代随一の英雄であった。ブハル族はこのチャトンによってますます盛んになっていたところである。
ルーシの存亡の危機であった。そしてルーシが倒れれば、ブハル族はそのまま西や北になだれ込んでくることは火を見るより明らか。すなわち、スラヴ人全体の危機でもある。
フセヴォロドは領内はおろか領外のスラヴ人の村々にまでそうした触れを出し、大急ぎで兵を集め、軍備を整えた。フセヴォロドの統治で栄えていたキエフでは、鍛冶屋が休む間もなく武具を打ち、商人たちが大挙して物資を運び込んだ。
フセヴォロドの威信と軍神ペルーンの名の下に集まったのは、スラヴ兵1万という空前の大軍勢であった。西のフランク人や南のビザンツ帝国ならいざ知らず、王が立ってまだ8年のルーシにこれだけの軍を整える力があったということを知り、周辺諸部族のスラヴ人たちはフセヴォロドの威光に恐れおののいた。
ルーシに臣従する諸部族もこぞって兵を出したが、意外だったのはスロヴェネ族大首長・ズビグネフが参戦し、兵を送ってきたことであった。参戦しただけで兵を出さなかったフセヴォロドは感謝すると同時にこれを詫びたが、ズビグネフは問題にしなかったという。
開戦2年目の戦況。何度も戦ってほとんど勝利しているにもかかわらず、勝っても同数程度の損害しか与えられないため、敵に致命傷が出ない。こちらが負けると大損害なのに……。
フセヴォロドは三女プレブラナの婿でキプチャク出身のボニャクに軍を託し、その補佐に次男イゴールを当てた。ボニャクははじめの小競り合いでは優勢に戦ったが、ドン川沿岸のターナにおいてチャトンに敗れた。ボニャクはこれを恥じて将軍を辞し、以降はイゴールが軍を率いた。
イゴールは今は亡きマジャル族出身の将・ベラを重用した。イゴールとベラはノヴゴロド・セヴェルスキーの地で再びチャトンの軍とまみえ、ズビグネフの援軍を得てこれを破った。
スラヴ連合軍側の名将・ルスラン。いるところにはこういう名将がいるらしい。
この戦で獅子奮迅の働きを見せたのがミンスク首長の臣・ルスランである。齢57の老将だったが、当代一の英雄・チャトンと互角以上に戦い、ついにはスラヴ連合軍に勝利をもたらしたのであった。
だが、チャトンの軍勢は敗戦によって衰えるどころか、日一日とますます兵力を増やしていった。イゴールとベラにとっては、無限に敵騎兵が湧いてくる悪夢のような戦となっていた。優勢に戦っているはずであるのに、ブハル族の士気は下がるどころかむしろ上がっているようにさえ見えた。
ブハル族との戦は3年目を迎えた。
次回:キエフ年代記 第4回
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