「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第4回は、引き続きフセヴォロド王の治世。
前回:キエフ年代記 第3回
802年
戦は続く
ブハル族との戦いは続く。さすがに信仰と威信を消費し尽くして大軍を作ったのでなんとかなりはしたが、敵が減らない……。
フセヴォロドが大首長となって33年目、王となって11年目、ブハル族との戦はまだ続いていた。
イゴールとベラ、そして新たに派遣されてきた四男フセスラフは、倒しても倒しても数の減らないチャトンの軍への対応に苦慮していた。
「やはり地の果てまでも追いかけて、徹底的に殺し尽くすしかないのではないか」
幸い、ルーシの諸部族が出した兵で国内は守られている。さらにフセヴォロドが新たに大軍を援兵として送ってきた。イゴールには、当たれば勝てるという確信があった。
イゴールはチャトンの軍を幾度も打ち破り、敗走するチャトンの軍を追った。敵は遊牧民、当然足の速さで勝てるわけもないが、チャトンは執拗にルーシへの襲撃を行おうとし、そのたびにイゴールはチャトンの軍を待ち伏せ、散々に打ち破った。
チャトンの軍勢が遠方に退却すると、ブハル族の本拠であったアゾフを襲撃し、焼き払った。もはやブハル族との間には、殺すか殺されるかの関係しかなかった。
そうしたむごたらしい戦はさらに2年続いた。ブハル族もルーシも、ともに兵を大勢失っていたが、戦が始まって5年目の夏、チャトンはついに膝を屈した。
フセヴォロドはスラヴ世界を守り切った名声とわずかな賠償の財物を得た。だが、5年に及ぶ戦で膨大な数の戦士たちが死んだことに比べれば、なにも得なかったも同然だった。
黄色で囲んだところがスロヴェネ族(Ilmen)の獲得したロストフ大首長の領地。
スロヴェネ族とロストフ大首長との戦はまだ続いていた。フセヴォロドはブハル族との戦への加勢の返礼として、イゴールの軍に一時の休息を取らせた後、北方に向かうよう指示した。
イゴールは1年でロストフ大首長の軍を破り、劣勢だったスロヴェネ族に勝利をもたらした。
しかし、ことはイゴールの軍の凱旋の途上で起こった。
806年
ノヴゴロド・セヴェルスキー首長トリフォンの反乱
反乱勃発。なんとも嫌なタイミング。しかもこの後威信を消費して兵を集めてきたので、こちらも威信を消費して兵を増強する羽目に。
フセヴォロドが大首長となって37年目、王となって15年目、ノヴゴロド・セヴェルスキー首長トリフォンが反乱の兵を挙げた。ロストフでの戦が終わって戻ろうとするイゴールの軍をキエフと分断しようというものであった。
だがトリフォンはその後まもなく病死し、反乱に同調したロスラヴリ首長、リューベチ首長との戦となった。
戦は2年で終わり、ロスラヴリ首長、リューベチ首長は獄に落とされた。
813年
戦士長ムスティスラフの反乱
また反乱。他国に反乱者の領土が占領されると講和できないらしく、鎮圧にえらく時間がかかってしまった。
フセヴォロドが大首長となって44年目、王となって22年目、このころ、フセヴォロドは老いによってさらに醜くなり、特にキエフの女たちには人気がなかった。これとブハル族撃退の偉大な功績をかけて、キエフの戦士たちは親しみを込めてフセヴォロドを「撃退王(The Repulsive)」と呼び、やがてこれが広まった。
そんな中、ルーシ戦士長にしてウラディーミル・ヴォリンスキー首長のムスティスラフは反乱の兵を挙げた。途中ビザンツ帝国の侵攻もあり、フセヴォロドは3年がかりでこの反乱を鎮圧した。既に齢70を超え、一代の傑物であったフセヴォロドも衰えていた。
818年
ルーシ王フセヴォロドの死
初代ルーシ王フセヴォロドの死。第2代ルーシ王ヴィシャタは長男デミドの五男。
フセヴォロドが大首長となって49年目、王となって27年目の春、一代で出納役人からルーシの王まで駆け上がった「撃退王」フセヴォロドは、最愛の妻アイシェに看取られて死んだ。晩年は封臣たちの反乱に悩まされ、平和のうちに統治できた期間はそう多くはなかったが、キエフは大いに栄えた。
2代目のヴィシャタ。まだ子供はいないが、18歳なので問題はないはず。
フセヴォロドは死の間際に、長男デミドの五男ヴィシャタを後継者に指名した。
フセヴォロドは妻や愛妾との間に12人の子をなしたが、長男デミドは早くに病で亡くなり、その長男フセヴォロドは長く後継者と目されていたが、先年惜しまれつつ衰弱死した。
白羽の矢を立ったヴィシャタは成人して日が浅いとはいえ、後継者候補の中では抜きん出て優秀で、評議会や家臣団も納得する人選だった。
黄色で囲ったのが先代・フセヴォロドのときのルーシ王国領。オレンジで囲ったところが当代・ヴィシャタの所領。
フセヴォロドの所領が分割された結果、ヴィシャタはルーシ王、キエフ大首長領(キエフ、コルスンの2州)を相続。ドニエプル川東岸のほとんどの所領はフセヴォロドの息子、ヴィシャタから見ると叔父たちが相続し、ルーシから独立を宣言した。トゥーロフも叔父が相続し、こちらもやはり独立した。
ヴィシャタの支配下に残ったのは、キエフの西を治めるガーリチ大首長、北のミンスク・レピエル両首長、ドニエプル川東岸のコルティッツァを相続した兄のドブリニャ、そしてデスナ川東岸のブリャンスクを相続した年下の叔父のヴォロダリのみであった。
フセヴォロドの死は、波乱の生涯とは対照的に穏やかなものであった。人気こそなかったが、まつりごとをよく取り仕切り、戦に際しては才覚のある者に惜しまず軍を任せ、ルーシを守った。
最初の妻ドブラヴァの遺した雷神ペルーンの意匠が施された首飾りは、ヴィシャタの手に渡った。
次回:キエフ年代記 第5回
コメント
CK2を楽しみながらプレーされている様子がうかがうことが出来て、うらやましいです。
私にとってCK2はハードルが高くて、いつも最初のほうで挫折しています。
やはり、歴史的や文化的な素養が少し足りないのかなぁ。
ご覧いただきありがとうございます。
私も実を言うと中世ヨーロッパはあまり詳しくはないので、歴史的な知識というよりは、ゲームで起こったことから妄想して楽しんでいるというのが近いですね。
いろいろ考えるにあたって「これってどうなってたんだろう?」と調べ始めることもありますし……。