「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第9回は、ヤロポルク王の治世。
前回:キエフ年代記 第8回
929年
農民反乱と遊牧民の襲撃
農民反乱と遊牧民の襲撃が同時に発生。だが戦時で兵を集めているので撃退は簡単。
ヤロポルクが王となって1年目の夏、打ち続くブルガリアとの戦争に反抗するように、ノヴゴロド・セヴェルスキーで農民反乱が発生。同時にクリミア半島の遊牧民スルサ族が略奪のために領内に侵入してきた。
ヤロポルクは軍を本隊と支隊に分け、本隊は農民反乱の鎮圧、支隊はスルサ族の撃退に向かわせた。
結局スルサ族は略奪を諦めて退却し、農民の反乱軍はペレヤスラヴリで散々に撃ち破られ、首魁は処断された。
翌年には先代から続いたブルガリアとの戦争にも勝利し、ヤロポルクは王として広く認められるようになった。
934年
聖地イェルサレムへの十字軍
とりあえずこちらに来なくて一安心。イスラム教勢力とキリスト教勢力には互いに消耗してもらいたい。
ヤロポルクが王となって6年目、ローマ教皇ハドリアヌス1世は聖地イェルサレムへの十字軍を宣言。
キリスト教勢力の矛先がスラヴではなくイスラム教徒に向いたのは幸運なことだった。キエフはコンスタンティノープルに勝るとも劣らないほどの大都市として栄えていたが、国としてみればルーシはまだまだビザンツ帝国やキリスト教勢力には敵わないのだ。
936年
ガーリチの剥奪
Galichの請求権捏造が成功したため剥奪。
ヤロポルクが王となって8年目、ヤロポルクはガーリチ公領を長らく支配してきたティヴェルシ家のスタニスラフからガーリチ伯領を剥奪した。ヤロポルクの父が先代のガーリチ伯爵からガーリチを譲り受けることを約した文書が発見されたことがきっかけだった。
スタニスラフが戦っても勝てないことは、先代ガーリチ伯が先代の王イェレメイにテレボーウリャを剥奪された際の事例を見ても明らかだった。スタニスラフはヤロポルクの命に従ってガーリチを引き渡した。
937年
ルコモリー首長イゴールの反乱
ヤロポルクが王となって9年目、ヤロポルクの妾ルバヴァとルコモリー首長イゴールの密通が露見。ルバヴァは投獄されたが、イゴールは追手から逃れて所領に戻り、反乱の兵を挙げた。
ヤロポルクはイゴール追討のため兵を差し向けたのだが……。
残酷王ヤロポルクの死
夏から秋にかけて、ピンスクからルーシ中心部にかけてチフスが流行。夏には次男のスヴャトポルクがチフスで死んだが、ヤロポルクは祖法にしたがってキエフの門を閉じることはなかった。しかし、これがたたって秋にはヤロポルク自身がチフスにかかり、発症からひと月でヤロポルクは死んだ。
指揮と陰謀が高いが、肝心の外交と管理が低く、王としては困った能力値。妻は管理能力こそ高いが、梅毒(Great Pox)持ちで狂気持ちというありがたくない状態。
跡は長男のミトロファンが継いだ。「武勇と権謀に長けているが、王に必要な外交性のない人物」というのが宮廷の評価であった。そして父を殺したチフスにミトロファンもかかっていた。
ミトロファンの妻は先々代の高潔王イェレメイの庶子だが、重い疱瘡にかかっており、さらに病気のせいか物狂いでもあった。キエフの人々はルーシの将来を憂いた。
残酷王ヤロポルクは、さしたる業績もないまま世を去った。
次回:キエフ年代記 第10回
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