「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第10回

「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第10回は、ミトロファン王の治世。

前回:キエフ年代記 第9回


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938年

讒言

Intrigueが高いと讒言を看破する選択肢が出てくる。

ミトロファンが王となって2年目、ミトロファンはトルキの首長デミドから「売国奴がいる」という知らせを受け取った。ミトロファンはこれを受けてその当人を調べさせたが、証拠は出てこなかった。

「讒言を行い、王と臣下を相争わせようとした。デミドこそが真の裏切り者である」。ミトロファンはデミドを投獄した。

939年

反乱と戦争

もはや恒例となった代替わり後の内乱。

ミトロファンが王となって3年目、ブリャンスク首長スヴャトポルクを首魁として、反ミトロファン派の封臣たちは一斉に反旗を翻した。

三度目のブルガリアとの戦争。しつこい……。

さらにこれに示し合わせたかのようにして、ブルガリア王サンディルがモルダウ公領の割譲を求めて宣戦を布告。ミトロファンは即位後最大の危機を迎えた。

ミトロファンは勇士揃いの反乱軍にチェルニゴフの戦いで敗れるも、金蔵に蓄えられた莫大な富を使ってブルガリア人傭兵団を雇用し、北に反乱軍を打ち破り、南にブルガリア王軍を撃砕した。

ミトロファンは戦争が始まって2年目に反乱を起こした諸侯を投獄し、3年目にはブルガリア王サンディルに城下の盟を結ばせた。ブルガリア王からは賠償金を取り、反乱諸侯は領地を没収され、新たにミトロファンの親族が封ぜられた。

内乱が起こり、鎮圧され、領主が変わるのは、もはやルーシ王の代替わりの際の慣例となっていた。

946年

二度目の内乱

また反乱。ゲーム時間のほとんどを反乱の対応に費やしている気がする……。もう少し封臣のご機嫌を取るべきか?

ミトロファンが王となって10年目、今度は前回反乱に参加しなかった諸侯が反乱の火の手をあげた。だが動員兵力はミトロファンに対して圧倒的に少なく、もとより勝つ見込みはなかった。

結局2年で反乱は鎮圧され、前回の反乱も合わせるとルーシの領主たちはその大半が顔ぶれを変えた。

949年

ベレスティ首長ニキータ

以前にも現れた、女を誘惑することによって宮廷に浸透しようとする封臣。でも反乱につながることはあまりないのでまだマシ。

ミトロファンが王となって13年目、ミトロファンは宮廷女官の一人から、「ベレスティ首長ニキータから王の暗殺計画に誘われた」と告白を受けた。また後日、妻のグレミスラヴァからは閨に誘われたと聞かされ、また妾の一人がニキータと密通しているとも告げた。

標的の妻が計画に参加するという幸運。浮気ばかりする旦那に嫌気が差したのだろうか。

ミトロファンは件の妾に婿を取らせて宮廷から追い払い、一方でニキータの周辺の人物を買収して暗殺の謀議を始めた。

暗殺成功。下手人もバレず。

半年後、身の程知らずのニキータは毒蛇に噛まれて死んだ。実行したのはニキータの妻だった。ニキータの跡は娘が継いだ。

952年

ブルガリアへの大聖戦

うまく行く気がまったくしない……。

ミトロファンが王となって16年目、大司教グラディスラヴァはブルガリアに対する大聖戦を宣言した。だが長らくビザンツ帝国との友好関係を築いてきたミトロファンは大司教のこの宣言に激怒し、ブルガリアへは一兵も出さないことに決めた。

しかしペルーン戦士団がビザンツの小部隊を蹴散らして勢いづくと、ルーシの諸侯はこぞって兵を出し始めた。

案の定失敗。ビザンツに勝つのは難しい。

緒戦は優勢に戦っていたスラヴ諸侯だったが、ビザンツ帝国軍の主力がバルカン半島に到着すると、統制が取れずに小部隊に分かれて戦っていたスラヴ諸侯軍は次々に撃破され、最後には大司教グラディスラヴァが戦場で捕らわれて大聖戦は失敗に終わった。

962年

三度目の反乱

また反乱。今回は関係の悪い諸侯を取り潰して長子相続制への道を開きたいところ。

ミトロファンが王となって26年目、コルティッツァの首長イェレメイを首魁として3度目の反乱が勃発。イェレメイは前々回の反乱の後、まだ幼い頃にミトロファンからコルティッツァに封ぜられた身であった。

反乱は1年で鎮圧されたが、内乱中にチェルニゴフ大首長が王位の請求権を捏造しようとしていたことが発覚。投獄しようとしたが失敗し、チェルニゴフ大首長もまた反乱の兵を挙げ、そして鎮圧された。

965年

長子相続制

ようやっとの長子相続制。ここまで長かった……。

反乱の後始末として封臣たちを整理した後、ミトロファンはルーシ王位を選挙制から長子相続制に変更した。三度にわたる内乱を叩き潰してきたミトロファンの行為に反対できる者は、もはやルーシにはいなかった。

評議会も既に権限はなく、あとは廃止を待つのみ。

ほぼ同時期に、ミトロファンは宣戦布告の権限を評議会から剥奪しており、ルーシ王と有力家臣や評議会の力の差は徐々に明らかなものとなっていた。

971年

評議会の廃止

ミトロファンが王となって35年目、ミトロファンはルーシの評議会を廃止した。

200年前の初代・フセヴォロドの時代には既にあった評議会は、キエフのような小さな地域のまつりごとはうまく行えたが、四方を敵に囲まれ、かつ広大な領地を治める今のルーシには適さない。カスピ海からやってくるイスラム商人によれば、かつて地中海をまるごと治めたというローマも、領土が広がると共和政を廃して帝政に移ったという。

ミトロファンは最後の評議会でこのように述べ、評議会を廃止して権力を王に集中させた。

973年

モンゴル帝国からの使者

ミトロファンが王となって37年目、東方の大帝国であるモンゴル帝国からキエフの宮廷に使者がやってきた。不可侵条約を結びたいという。

現在のミトロファンの妻・サティは遊牧民出身で、最近里帰りの際にモンゴル帝国の都・カラコルムに寄った。そこで西方の大国ルーシの妃であるということがバレてしまい、モンゴルの宮廷に歓待されて大ハン・カダフと謁見もしたのだとか。

ウイグルを散々に蹴散らした4代前の大ハン・テムジンの頃には及びもつかないが、モンゴルは未だ強大な帝国であり、誼を通じておくのは決して損にはならないであろう。ミトロファンはこう考えて不可侵条約を受諾した。

978年

ヤトヴィンギアの帰属

ミトロファンが王となって40年を超えた頃になると、以前はリトアニアの土地とみなされていたヤトヴィンギアの地は、リトアニアではなくルーシの一地方であると考えられるようになった。ヤトヴィンギアは先々代のイェレメイ王の時代に征服されてから、文化や宗教もすっかりルーシと同化していたのであった。

979年

ヴィーシュホロドの建設

ミトロファンが王となって43年目の秋、キエフからドニプロ川を遡ったところに、ミトロファンは新たな城・ヴィーシュホロドを建設した。キエフがあまりにも栄えて手狭になり、充分な兵舎や訓練場を設けることが難しくなったためであった。

982年

剛勇王ミトロファンの死

ミトロファンが王となって46年目、ルーシ一帯で肺病が流行した。ミトロファンの代になってキエフの街の病院は世界一と言ってよいほど大規模なものとなったが、肺病の流行を止めることができるわけではなかった。

宮廷内でも肺病は流行し、既に老境に入っていたミトロファンは発病から数ヶ月で世を去った。

能力値がおそらく過去最低レベル。若いのが救いか。

ミトロファンの長男イェレメイは既に亡かったため、孫のヴォイスラフが跡を継いだ。ヴォイスラフは学識豊かではあったが、内向的で戦もまつりごとも不得手としていた。スラヴ神殿の司祭にはうってつけの人物であったかもしれない。

剛勇王ミトロファンは、継承法の改定や評議会の廃止など、異名に反してまつりごとについての業績が大きな王であった。その事績は末永く語り継がれることであろう!


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