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「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第8回

その他

「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第8回は、イェレメイ王の治世。

前回:キエフ年代記 第7回


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871年

代替わりの反乱

南北辺境域の領主による反乱。この他、西部の領主による反乱も勃発した。

先代ヴィシャタ王と同じく、即位直後からイェレメイは封臣たちの反乱に悩まされた。領内が落ち着くまでに、およそ半数の領主が入れ替わった。

ルーシ王の代替わりごとの内乱は、弊風としてルーシに災いをもたらすことになるであろう……。

880年

ライバルとの対立

娘の彼氏が自分のライバル。

代替わり直後の内乱の中で、ヴォルィニア公爵フセスラフはイェレメイに対して反旗を翻し、敗れて公爵位を剥奪された。フセスラフはその恨みもあってかイェレメイと深刻に対立するようになったが、戦場や政争では勝てぬと踏んで、戦いの舞台を閨に移した。

手始めに手を出したのはイェレメイの妻・ヤロスラヴァだった。ヤロスラヴァはこれに応じなかったものの、イェレメイはフセスラフのこの行為に激怒して暗殺を企てることさえした。

だが、フセスラフは続いてイェレメイの妾を誘惑し、これをそそのかしてイェレメイの暗殺すら行わせようとした。

この計画が露見し、妾が領内から追放されると、フセスラフは次に領外から婿を迎えたばかりのイェレメイの長女・ボレスラヴァを毒牙にかけたのであった。

最終的に、フセスラフはイェレメイのいとことの不義の罪で地下牢に落とされ、獄中で没した。

881年

防衛戦争は基本的に得るものがないのでやりたくない……。

そんな中、イェレメイが王となって12年目、南のブルガリア王ティメルパラトがワラキアの征服に乗り出した。

イェレメイはクマン人傭兵団を雇ってブルガリア軍とブルラドにて会戦、ブルガリア軍を撃破することに成功した。戦争は1年で終わり、イェレメイは兵を失った代わりにティメルパラトからの賠償金と名誉を得た。

896年

継承法の改定

継承法をAgnaticからAgnatic-Cognaticへ変更。

イェレメイが王となって27年目、イェレメイは男子のみに相続を認めていた継承法を、男子がいない場合に限って女子の相続も認めるように改定した。

このとき、イェレメイが王位を継いだとき、イェレメイの子供は女子が二人いるだけだった。イェレメイが継承法を改定したのは、このときの経験によるものであろう。

継承法の改定

領地を剥奪しようとしたら反乱に。そりゃそうですよね……。

この頃、イェレメイはガーリチ公爵領を獲得するための策を巡らせていた。最終的にキエフ公爵領、トゥーロフ公爵領、ガーリチ公爵領を王の直轄領として固定化することを考えていたのだった。

その策の第一歩として、領有権を捏造したテレボーウリャをガーリチ公爵フセヴォロドから剥奪せんとした。弱冠12歳だが、フセヴォロドは当然のごとくこれに反発。兵を挙げてイェレメイに対抗した。

半年で反乱は鎮圧され、フセヴォロドはガーリチ公爵位とテレボーウリャを失った。

898年

モンゴルの勃興

史実より200年早いモンゴルの登場。まだ全然迎撃する準備が整っていない……。

イェレメイが王となって29年目、イェレメイの元を訪れた吟遊詩人ははるか東の遊牧民・モンゴル族のことを歌った。

ウラル山脈の東、ウイグル族のさらに東の草原地帯の一部族であったモンゴル族は、偉大なるハンによって周辺部族を取りまとめ、世界の覇者となる野望を持っているのだとか。

イェレメイはこの吟遊詩人の勇ましい歌を好み、あれこれと話を聞いた。モンゴルが襲来するまでは、まだいくばくかの時が残されていた。

900年

十字軍

こちらも200年くらい早い十字軍。こっちに来ませんように。

イェレメイが王となって31年目、今度は西方のキリスト教諸国が動き始めた。教皇アナスタシウス3世が十字軍の発動を宣言したのだった。

イェレメイはキリスト教諸国に対する防波堤となるポーランド王国の王子と娘を婚約させ、手を携えてキリスト教の圧迫に対抗することとした。

902年

同盟の打診

万が一十字軍の対象になってしまうと、こちらにも火の粉が降りかかる。だが、結局ポーランドが負けてキリスト教国になってしまうとうちが最前線ということに。悩ましい。

イェレメイが王となって33年目、ポーランド王スノヴィトより同盟締結の提案が行われた。イェレメイは熟慮の末、これを丁重に断った。

903年

疫病の流行

疫病の流行と聖戦発動がほぼ同時に発動。

イェレメイが王となって34年目、キエフで結核が流行。大司教プラスコヴィヤはこれを神々の怒りによるものだと主張し、ドイツへの聖戦を発動した。

聖戦発動当初は誰も参加するものはなく、プラスコヴィヤは狂ったのではないかとすら言われていたが、ペルーン戦士団を嚆矢として次々とスラヴ人領主がこれに続いた。

914年

モンゴルの興隆

あっという間にモンゴルに塗りつぶされていく草原地帯。

イェレメイが王となって45年目、イェレメイは再び吟遊詩人からモンゴル族の噂を聞いた。東の果てから現れたモンゴル軍10万は、精強で知られたウイグル軍をやすやすと打ち破ったという。

10万のイベント兵力がまったく減っていない……。

モンゴルのハン・テムジンは「ウイグル殺し」とあだ名される英雄で、キリスト教徒でありながら残忍に敵を殺し、妾を侍らせているという。モンゴルの軍勢は城や村々を襲っては犯し、殺し、奪い、人の住めない土地に変えてまた次の征服先へと向かう。

東の果てから現れたモンゴル軍の威名は今や黒海東岸にまで及んでいると聞き、イェレメイはモンゴルと戦うか、それともモンゴルに従うかを考えなければならなかった。

922年

ドイツへの聖戦の失敗

イェレメイが王となって53年目、大司教プラスコヴィヤは聖戦の中止を宣言。およそ20年の長きに渡って行われたドイツのスラヴ化のための聖戦は、事実上失敗に終わった。

924年

内乱とブルガリアの再宣戦

またブルガリア。めんどくさいし滅ぼしたい……。

イェレメイが王となって55年目、もう何度目になるかもわからない内乱が勃発し、これにつけ込むようにブルガリア王からの宣戦の通告が届いた。

イェレメイはまず2年がかりで内乱を鎮圧し、返す刀でブルガリア軍を迎撃した。南部の諸城は一時ブルガリア軍に占領されたが、ブルガリア軍主力をオルヴィアの地で撃破した後、ルーシ軍は占領された領地を奪回し、ブルガリア軍をあと一歩のところまで追い詰めた。

929年

高潔王イェレメイの死

イェレメイが王となって60年目に入った直後の1月、ブルガリアに対する勝利を目前にして、イェレメイは没した。60年の治世で、キエフを始めとして領内は大きく発展した。各地に市が立ち、城は固く守られ、キエフの法学はコンスタンティノープルを凌ぐほどであった。

学識はあるが、正直王としては微妙すぎる能力。息子が二人おり、長男が成人しているのが救いか。長男は指揮官タイプだが、やっぱり微妙。

跡を継いだのは、イェレメイの祖父であるヴィシャタの弟・ブラチスラフの孫で、ウラディーミル・ヴォリンスキー伯爵のヤロポルクであった。学問に秀で、医者としての評判はよかったが、それ以外に取り立てて優秀ということはない男だった。しかし、王を選ぶ重臣たちは彼を王に推戴した。

キエフの住民たちは「東からはモンゴル、西からはキリスト教徒が迫っているというのに、あのような王でルーシは大丈夫なのだろうか」と気をもんだ。

王になると妾を取って大量に子供を作りまくるので、家系図が横に長い。

ヤロポルクへの王位継承により、モウチャーン王朝はヴィシャタ系からヴィシャタの弟・ブラチスラフ系に移った。

イェレメイは幾多の反乱を鎮め、同時にルーシを大きく富ませた。その事績は長く語り継がれるであろう!


次回:キエフ年代記 第9回

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