「Crusader Kings II」プレイリポート:ブリタニア帝国建国記 第19回は、Godwyn3世の孫Godwyn4世の治世です。
2015/11/5 カテゴリーを変更。
王太子誕生
1065年3月、待望の第一子Gwriadが誕生。
正直なところ、このまま子なしかと恐れていたので、「無事に生まれてきてくれてありがとう!」と思いました。
Gwent伯爵領
先代の時代から、Deheubarth公爵領配下のGwent伯爵領はSussex女伯爵が領有している状態が続いていました(Gwent伯爵領で問題が起こるのは、もう3回目です)。
1066年7月、宰相がGwent伯爵領の請求権を捏造。これまでと同様、Sussex女伯爵の主君Kent公爵にSussex女伯爵を直臣とする旨通告しますが、反乱を起こされます。
1067年7月、Kent公爵を下してSussex女伯爵を直臣とし、Sussex女伯爵にGwentの召し上げを通告します。Sussex女伯爵はこれを受け入れ、Gwentの回収が完了。
Gwent伯爵には、腹違いの弟Uthyrを任命。後継者も問題ありません。
これでGwent伯爵領の問題は解決しましたが、Sussex女伯爵の夫がGlamorgan伯爵なので、再びここでトラブルが起こることは目に見えています……。
Dun Barの獲得
1069年4月、宰相がNorthumbarlandの北隣Dun Barの請求権を捏造したことで、Dun Bar伯爵の主君Mhannin公爵Enna(先代の間にCalchfynyddを奪ったLabhdaidh小王Ennaと同一人物)に宣戦を布告します。
1071年5月、意外と粘られましたが、なんとか勝利してDun Bar改めDin Baerを獲得。
叔母の婿で”天才”持ちのMarchをDin Baer伯爵に任命します。天才持ちを手放すのはちょっと惜しいですが……。
第5回十字軍
1074年12月、時の教皇Formosusはフランスに対する十字軍発動を宣言。40年前の第4回と同様、第5回もフランスに対するものとなりました。
40年前の第4回十字軍によって、フランス王は北フランスを失い、東フランスを地盤にしていたのですが、この40年でノルマンディ地方からフリジアまでの沿岸部を回復していました。北・東部フランス~フリジアは、上のマップのようにほぼロラード派が占めており、フランス王もそれに倣ってロラード派を奉じているのでしょう。
今回も、Brythoniad王国の多くの公爵たちが十字軍としてフランスに渡っていきました。
1080年7月、教皇Formosusは十字軍の成功を宣言。
フランス王国が領有していた北フランスの土地は、フリジアの一伯爵にすぎなかった、Westfriesland伯爵Adalbertが総取りとなりました。
Kent公爵への懲罰
Surrey伯爵領の問題
1080年頃から、Kent公爵はまだ未成年のSurrey伯爵から領地を召し上げるべく戦争を行っており、1081年に入って遂にSurrey伯爵はKent公爵に屈服し、領地を召し上げられてしまいました。
我がBrythoniad王国では、2州以上を領有してよいのは王だけです。Kent公爵のふるまいは分を超えた強欲と言えましょう。
というわけで、Kent公爵が戦争でもぎ取ったSurrey伯爵への請求権を、1082年6月に宰相が獲得してきたので、領地の召し上げを通告します。
さすがに王に反抗するのはまずいと考えたのか、Kent公爵は要求を飲みました。
新しいSurrey公爵には、叔母の婿Cyngarを任命。跡継ぎはまだいませんが、叔母Effrosはまだ21歳ですから問題ないはずです。
Lloegyr王位に対する請求権捏造の罪
1085年10月、密偵長からKent公爵がLloegyr王位に対する請求権を捏造しているとの知らせが舞い込みます。当然Kent公爵を捕らえるべく動きますが、逮捕に失敗。反乱を起こされてしまいます。
ですが、どうやらSussex伯爵が父からGlamorgan伯爵領を継承しているようです。ちょうどいい機会ですから、これを解決してしまいましょう。
国王の死
Kent公爵を討伐すべく、Brythoniad軍を動員してKentへ進軍している最中のことでした。
1085年12月、Brythoniad王Godwyn4世は、42歳の若さでこの世を去ってしまいます。プレイしている私も、まったく意外なタイミングで死なれて驚きました。
Godwyn4世の跡は、長男Gwriad2世が継ぎました。Gwynedd家から出たBrythoniad王でGwriadという名の者はいなかったはずですが、なぜ2世なのかと言いますと、Gwynedd家から出た最初の王Denisに王位を奪われる前、最初に王位を創設した初代Brythoniad王がGwriadという名前だったのでした。
このGwriad1世を輩出したのはどうやらGlamorgan伯爵家からのし上がっていった家なのですが、10世紀半ば頃までに一族の者はすべて亡くなり、絶えてしまっています。
さて、このたび王位を継いだGwriad2世ですが、なかなか中途半端な能力です。高くもなく低くもなく、といったところでしょうか。子供はまだ娘が一人いるのみですが、まだ二人とも20代なので、大丈夫……と思いたいところです。
というわけで、今回も少し短めですがここまで。第20回は、Godwyn4世の子Gwriad2世の治世です。
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