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「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第6回

その他

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「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第6回は、前回に引き続きヴィシャタ王の治世。

前回:キエフ年代記 第5回


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830年

農民反乱

ck2-aarkiev6-revolt先代の頃は一仕事だった農民反乱の鎮圧も、兵を集めればもはや敵ではない。

ヴィシャタが王となって13年目、オレシェ首長の領地で相次いで農民反乱が勃発。1年でこれは鎮圧された。オレシェ首長は以前反乱を起こしてキエフの地下牢に投獄されており、息子が代わりに統治していたが、その統治はうまく行っていなかったようである。

832年

ベレスティ征服

ck2-aarkiev6-war「未回収のルーシ」ベレスティの征服。

ヴィシャタが王となって15年目、ヴィシャタはベレスティの征服に乗り出した。ベレスティは先代・フセヴォロドの時代から長らくリトアニアの領地であったところだが、ヴィシャタはリトアニアで内乱が起こっている最中を狙ったのであった。

ck2-aarkiev6-war2面倒なタイミングでまた反乱が……。

リトアニアの内紛は反乱者側の勝利で終わり、同時にベレスティの征服も1年で決着した。

この少し前にロスラヴリ首長レフがヴィシャタの退位を求めて反乱の兵を挙げたが、リューベチの会戦でレフは捕虜となり、まもなく鎮圧された。レフはその後、死ぬまでキエフの牢獄で生涯を送った。

833年

聖地再復

ck2-aarkiev6-war3聖地の奪還によってMoral Authorityは43%に上昇する予定。シーザー族の征服は楽なもの。

ヴィシャタが王となって16年目、ヴィシャタは再びシーザー族に軍を差し向けた。ブルラド一帯の征服と、聖地フシの再復のための軍であり、祖父・フセヴォロドを苦しめた仇敵・マジャル族の裔であるシーザー族に引導を渡すための軍でもあった。

ck2-aarkiev6-war4ハンガリー文化を継ぐ最後の部族・シーザー族は滅びた。

戦は1年で終わり、ヴィシャタの命で聖地フシにあったテングリの祭殿は破壊され、スラヴの神々に捧げる神殿が建てられた。

このころ、ヴィシャタのもとに、東の遊牧民・イリグ族からはカトリックの、南のビザンツ帝国からはギリシャ正教の宣教師が相次いで訪れ、また西のポーランド王はイスラム教に改宗した。ヴィシャタはスラヴの信仰の危機を肌で感じとっていた。

834年

ノヴゴロド・セヴェルスキー首長ロディスラフの臣従

ck2-aarkiev6-war5動員兵力も数百程度なので、放置するとよそに取られそう。

ヴィシャタが王となって17年目、聖地奪還の後、ヴィシャタは軍を北東に差し向けた。降伏条件の手違いで独立を保ったままだったノヴゴロド・セヴェルスキー首長ロディスラフを臣従させるためであった。

ck2-aarkiev6-war6集落を落としてさっさと臣従してもらって終了。ヴィシャタに最後まで逆らった叔父だった。

戦の前に、ヴィシャタはロディスラフに対して使者を出し、忠誠を誓うことを求めたが、返答は「否」だった。ロディスラフに勝ち目などなかったが、意地になっていたのだろう。ヴィシャタの軍は半年でノヴゴロド・セヴェルスキーを攻め落とし、ロディスラフはヴィシャタの前に膝を屈した。

ロディスラフはこの後まもなく病で世を去った。

835年

プウォツクの聖地再復

ck2-aarkiev6-war7プウォツク(黄色)に聖地があるが、国境を接していないので征服の大義名分を使えない。そこでまずグロドノを征服し、続けてプウォツクを征服するという2段階で取りに行くことに。

ヴィシャタが王となって18年目、ヴィシャタはイスラム教徒のモスクとなり果てたプウォツクにある聖地・プルシュクフの奪取を企てた。スラヴ信仰を改革し、外部から伝わってくる異教に対抗する力を得るため、ヴィシャタは聖地の獲得にこだわった。

ck2-aarkiev6-revolt2プウォツクを取らんとして戦っているときに反乱が勃発。しかも合計7,000弱という大兵力。

まずグロドノを征服し、その後プウォツクを征服するという段取りであったが、プウォツクを征服する戦争中に、国内の首長たちが反旗を翻した。ヴィシャタはやむなく兵を引き返させ、反乱の鎮圧に当たらせた。

自らに逆らう領主を次々と投獄し、無理矢理従わせるというヴィシャタのやり方に対する反感は大きく、ヴィシャタの治世では幾度も反乱が起こった。だが、ヴィシャタは廷臣に多くの戦巧者を擁し、自ら戦場で多くの武功を立てたこともあって、反乱は首長を投獄するよい口実としか思っていなかったようである。

ck2-aarkiev6-war8反乱は鎮圧できたが、ポーランドの内乱が終結してプウォツクの征服に失敗。しかもノヴゴロド・セヴェルスキーがよその領地になるという事態に。

反乱は1年で鎮圧できたが、その間にポーランド国内の反乱が成功し、再びスラヴ信仰の王が立った。これ自体は喜ばしいことではあったが、異教徒からの聖地解放が目的だったヴィシャタの戦争はこれにより挫折した。

しかし、問題はそれだけではなかった。ロディスラフの息子フィシェスラフがはるか北方、白海沿岸の部族・ビャルミア族の大首長に選ばれたのだ。

だが、フィシェスラフは反乱を起こして投獄されているトゥーロフ大首長スタニスラフと争っており、摂政・イゴールが優勢に戦っているのを見て、ヴィシャタ自身は手を出さないことにした。このときのヴィシャタには、北方の些事に関わっている余裕はなかった。

846年

再度のプウォツク征服

ck2-aarkiev6-war9イスラム教徒による反乱。異教徒なので「征服」の大義名分で宣戦布告が可能。内乱終結前にケリがつけばプウォツクを取れる!

ヴィシャタが王となって29年目、11年もの間、虎視眈々と狙っていた好機が訪れた。ポーランドでイスラム教徒が再び実権を握ろうと、反乱の兵を挙げたのだった。

ヴィシャタは即座に兵を集め、プウォツクへ進軍した。

ck2-aarkiev6-war10内戦終結の3日前にプウォツクを獲得して決着。ポーランド王側の軍が8,000というとんでもない兵力だったので、逃げ回りながら反乱側の領地を占領し、戦勝点99%でなんとか降伏させられた。

2年に及ぶ戦の末、ポーランドの内乱が鎮圧される寸前に、ヴィシャタはイスラム教徒たちからプウォツクの領有権を奪い取った。

ck2-aarkiev6-relegion5ヶ所の聖地すべてがスラヴ信仰の下にまとめられるも、よその領主が余計なことをやってくれたお陰で改革ができない。

これによってスラヴ信仰の聖地は5ヶ所すべてで保全されたが、ほかのスラヴ領主が異教徒に敗北することが続いたため、スラヴ信仰の権威にはかげりが見えており、スラヴ信仰の変革には今しばらくの時間が必要であった。

849年

周辺異教徒の征服

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ck2-aarkiev6-war121枚目が849年、2枚目が857年のルーシの版図(もっと北方にも領地があるが画像にはない)。「征服」の大義名分で勝利するとMoral Authorityが20年間+1%されるので、これを求めてひたすら周辺諸国に喧嘩を売りまくった。

ヴィシャタが王となって32年目、ヴィシャタはスラヴ信仰の偉大さを示すため、異教徒征伐の兵を挙げた。

8年の間にヴィシャタは東の遊牧民、南のブルガリア王国、西のリトアニア大首長の領地を切り取り、軍神ペルーンをはじめとしたスラヴの神々の偉大さをヨーロッパに広く知らしめた。

857年

スラヴ信仰の改革

ck2-aarkiev6-relegion2他のスラヴ領主が余計なことをして下がっていた分が消え、ルーシが征服しまくって稼いだおかげでギリギリ改革に必要なMoral Authority 50%を達成。長かった……。

ヴィシャタが王となって40年目の夏、ヴィシャタとキエフ近郊にあるユリエフの司祭・デミドが進めてきた宗教改革がついに結実する日が来た。

ck2-aarkiev6-relegion3

ヴィシャタとデミドはキリスト教やイスラム教を手本として、スラヴ信仰に関する資料を集め、教典を整備し、各地の神殿にヒエラルキーをつけて組織化した。

これまでスラヴ人はキリスト教やイスラム教の宣教師に対して、自らの信仰をもって対抗することはできなかったが、こうした改革によって今や異教徒をスラヴ信仰に取り込むことすらできるようになった。

ヴィシャタの野望は、ここに完成を見た。この変革が、ルーシに大きな波を引き起こしていくのであった。


次回:キエフ年代記 第7回

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