「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第5回は、ヴィシャタ王の治世。
前回:キエフ年代記 第4回
818年
叔父イェリセイとの戦
叔父・イェリセイとの戦争。動員兵力が300弱しかないので、早く飲み込まないとよそに持って行かれてしまう。
ヴィシャタが王となって1年目の夏、ヴィシャタは王位を継ぐやいなや、すぐにキエフから見てドニプロ川の対岸・ペレヤスラヴリを支配する叔父イェリセイの粛清に乗り出した。ルーシ王の子でありながら、そして川を挟んでキエフの隣という近隣で独立を果たした叔父を見逃すことは、すなわちルーシの王権の弱体化を認めてしまうことであった。
祖父とは異なり、ヴィシャタは戦下手ではなかったが、自ら軍を率いることはせず、ブハル族との大戦で恥をかいた叔母の婿ボニャクにキエフ戦士団を預けた。ボニャクはイェリセイの軍勢を軽く破り、イェリセイを捕えた。戦はひと月で終わった。
ペレヤスラヴリを獲得。楽勝。
敗れたイェリセイは西のヴォルィーニ大首長イゴールの下に身を寄せた。イゴールはトゥーロフを相続し、やはりルーシ王の支配から独立した叔父の一人である。いずれ雌雄を決しなければならぬ。
ヴィシャタの目は西に向けられた。
叔父イゴールとの戦
能力は高いし領地も広い。放置すると勝てなくなりそうなので、早い段階で征服することに。
ヴィシャタの行動は速かった。ボニャクと戦士団が戻るや、すぐにトゥーロフに向けて出陣するように命じたのだ。
戦は1年で終わった。ボニャクはトゥーロフを攻め落とし、コルスンの戦いでイゴールを捕えた。ブハル族を下したかつての英雄も、3倍の兵力を前に勝利を得ることはできなかった。
ビザンツ帝国の軍が聖戦をふっかけに来たが、占領される前に決着がつき、なんとか戦わずに済んだ。聖戦やるならアッバース朝とやってください……。
イゴールを臣従させ、旧ルーシ領の過半を回収したヴィシャタの次の獲物は、北のチェルニゴフ大首長領だった。
819年
叔父フセスラフとの戦
チェルニゴフ大首長との開戦事由は大首長位の獲得を選択。
ヴィシャタが王となって2年目、ヴィシャタは続いてチェルニゴフ大首長フセスラフに軍を差し向けた。ボニャクは1年でチェルニゴフとリューベチを陥落させ、フセスラフもまたヴィシャタに膝を屈した。
ちょっと意外なところから面倒なことに。いい機会なので領地をもらっておくことにする。
戦のさなか、祖父・フセヴォロドの死後にコルティッツァを継いでいた兄・ドブリニャが、ヴォルィーニ大首長イゴールの妻と密通したことが発覚。ヴィシャタはこれをおおやけにし、ドブリニャを捕縛せんとした。
ドブリニャは命からがら領地に戻って反乱の兵を挙げるも、半年で鎮圧され、投獄された。
ヴィシャタはドブリニャからコルティッツァを剥奪し、自らの領地とした。
直轄地も増え、なかなかよい感じに。
残すところはスモレンスク大首長ロディスラフのみ。しかしロディスラフは配下に反乱を起こされ、火消しをする力もないようであった。
ヴィシャタはこれを静観し、反乱の兵を挙げた旧ラヂミチ族首長の裔であるドブリニャを後で叩けばよいと考えた。国内にはまだ反乱の火種がくすぶっていたからである。
821年
ミンスク首長、ガーリチ大首長の反乱
合流されると兵力はほぼ互角。あまりうかうかしていられる相手ではない。
ヴィシャタが王となって4年目、ミンスク首長スヴャトスラフ、ガーリチ大首長フセスラフがルーシからの独立を宣言。継承時にこそ忠誠を誓ったものの、ヴィシャタが思ったよりも有能で強い王になろうとしているのを見て焦ったのだろう。
なんとか鎮圧。称号を剥奪したほか、戦中にイゴールが亡くなってトゥーロフを相続した。
鎮圧に当たったボニャクは陣中で没し、チェルニゴフ首長フセスラフの子・スタニスラフが軍を引き継いで、2年で反乱は終わった。
ミンスク首長スヴャトスラフはミンスクを、ガーリチ大首長フセスラフはガーリチ大首長の地位をそれぞれ没収された。
823年
叔父ロディスラフとの戦い
いくらなんでも長引きすぎて外患を呼び寄せそうなので、さっさと取り込むべく宣戦布告。
ヴィシャタが王となって6年目、ヴィシャタはスモレンスク大首長ロディスラフに軍を差し向けた。いつまでたっても反乱軍との決着がつかず、この際自らの手で鎮圧してしまおうと考えたのだった。
ロディスラフとの戦は半年で終わり、ロディスラフはスモレンスク大首長の地位をヴィシャタに譲ることに同意して和睦した。その後、反乱を起こしていたロスラヴリ首長ドブリニャを下して戦は終わった。だが、ロディスラフはヴィシャタの支配下には入らなかった。和睦の条件にヴィシャタへの臣従という条件が入っていなかったのだ。
「なんという失態だ!」
ヴィシャタは激怒したが、和平は結ばれてしまい、既に打つ手はなかった。
後から考えると、Casus Beliにスモレンスク大首長位の獲得を選んだのがまずかったんではないかという気が……。大人しくRutheniaのDe Jure Claimで宣戦布告が正解だったか。黄色は反乱を起こしていて今回支配下に入ったロスラヴリ首長の領地。
反乱を起こしていたロスラヴリ首長を勢力下に取り込み、停戦協定の期限が来れば、ロディスラフの領地も容易に飲み込める。ヴィシャタはそう思うことで、この件を忘れることにした。
824年
シーザー族の征服と三度の反乱
黄色で囲ったブルラドにスラヴ信仰の聖地がある。
ヴィシャタが王となって7年目、ヴィシャタは今度は南のシーザー族の征服に乗り出した。だが、ヴィシャタの狙いはシーザー族やその領地にあるのではなかった。シーザー族領ブルラドにあるスラヴ信仰の聖地こそが、ヴィシャタの真の狙いであった。
このタイミングで反乱とは迷惑千万。そして威信が高いやつが参加すると威信を消費して動員をかけてくるので、まことにめんどくさい。
だが、ヴィシャタに対して反感を抱いていた首長たちは、この機を逃さなかった。名声のあるリューベチ首長イェリセイを旗頭に据えて、王権の弱体化を掲げて兵を挙げたのであった。
イェリセイの名声のもとに多くの兵が集い、反乱軍はヴィシャタの率いる兵力を上回るほどであった。だが、ヴィシャタが急遽集めた兵とシーザー族征伐に向かった軍の合流が叶い、キエフにてイェリセイの軍5,000との決戦が行われ、ドニプロ川の地形を使って優位に戦ったヴィシャタの軍が勝利した。兵力で劣っていたはずのヴィシャタの勝利は反乱軍側の首長たちを動揺させた。
リューベチにて再度会戦が行われた際にも、イェリセイが兵力で勝っていたにもかかわらず、ヴィシャタ側の地形をうまく使った巧みな戦法に敗れた。大勢は決した。イェリセイら反乱を企てた首長たちは捕縛され、獄に落とされた。
以前のヴィシャタなら身代金を取って釈放することもあったが、ヴィシャタはそうしなかった。以前は木造だったキエフの城砦は石造りになり、以前でも大規模だった市は今や黒海以北で最大のものとなっている。身代金を取っても使い道がないのであった。
黄色で囲ったところが征服したトルキ。さっそく建物を建て、代替わりで遊牧地に戻らないように手当てする。なお、代替わりのときにCrown Focusが外れたことに気づかず、8年間キエフにFocusするのを忘れてました……。
2年で戦は終わり、ヴィシャタはトルキの地を征服した。もちろんこれは足がかりに過ぎず、休戦協定が切れれば再び戦いの幕を切って落とすことになろう。
しかし、ルーシに仇なす敵を、ヴィシャタは即位から8年ですべて平らげることができたように見える。東の遊牧民・イリグ族とも良好な関係を築いている。
明確な敵がいなくなったからか、ヴィシャタはフセヴォロドの治世のようにキエフの行政に力を注ぎ始めた。
代替わりから戦が続いたルーシの地は、こうしてしばしの平穏を楽しむこととなったのである。
次回:キエフ年代記 第6回
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