「Crusader Kings II」プレイ日記:キエフ年代記 第2回は、前回に引き続きフセヴォロド大首長の治世。
前回:キエフ年代記 第1回
777年
大首長夫妻とキエフの将来
妻・ドブラヴァと恋人関係に。Family Focusを使っていればフセヴォロドみたいな醜男でも奥さんと仲よくなれるので、CK2はいいゲーム。
フセヴォロドが大首長となって9年目、フセヴォロドとドブラヴァの仲の睦まじさと言ったら、ルーシでは知らぬ者のないほどとなっていた。ドブラヴァは先年2人目の男児・イゴールを出産し、キエフの将来も安泰と言ってよかった。
醜男で吃音癖のあるフセヴォロドがいかにしてドブラヴァと距離を縮めたのか、詳しくは伝わっていない。
778年
ドブラヴァの死とフセヴォロドの再婚
享年28歳。せっかく仲よくなれたのに……。
フセヴォロドが大首長となって10年目、ドブラヴァは食あたりで世を去った。双子を出産した矢先のことであった。
キエフのまつりごとは既にフセヴォロドの掌中にあり、混乱はなかったが、キエフの住民たちはみな嘆き悲しんだ。
後妻・マルフリダ。寺院領の当主で有力者だが、評議会には入れづらい能力値なので妻にしてお茶を濁す。
ドブラヴァの死後、フセヴォロドはすぐにトゥーロフ近郊の寺院・ドゥブロヴィツヤの司祭であるマルフリダを妻に迎えた。10年前、ドブラヴァが評議会に臣下の礼を取らせたときの評議員の一人である。
「大首長はマルフリダを妻に迎えるためにドブラヴァに毒を盛ったのではないか」
民草に人気のなかったフセヴォロドは、キエフの住民たちにこんな噂を立てられもしたが、評議員や役人たちは強く否定し、この噂はすぐに立ち消えた。フセヴォロドは民衆には不人気だったが、まつりごとに携わる人々からは10年の治世の間に確固たる評判を得ていたのだった。
フセヴォロドとドブラヴァ
恋人が死ぬと発生するイベント。
フセヴォロドの近侍によれば、ドブラヴァの死をフセヴォロドは深く悲しんでいたという。
「恋人の形見」というキャラクター補正を獲得し、健康度が上昇。ありがたい。
ある日、フセヴォロドはドブラヴァの墓の前で何時間も立ち尽くした後、大首長の顔になって閨に戻った。
翌日、唐突に「雷神ペルーンの文様を近衛戦士の旗印にする」と言い出したので何事かと尋ねると、「妻が形見を残してくれていたのだ」と言ってペルーンの文様を彫った首飾りを見せたという。婦人の持ち物としては風変わりだが、ドブラヴァがかつては非常な野心家だったことを考えると、軍神でもあるペルーンの首飾りを持っていたのももっともなことだ。
セヴェリャーネ族の征服
Severiaをこのまま放置するとRadimichiaかMagyarに取られる可能性が高い。先手必勝。
ドブラヴァの死後、キエフの占者の下には300名の若者たちが集まった。ドブラヴァの御霊を鎮めるために戦を起こそうという血気盛んな連中であった。
いつもならば酒でも飲ませて解散させるところだったが、フセヴォロドはこれを好機として軍を起こし、セヴェリャーネ族の征服に乗り出した。
領地は広がったが、動員兵力が増えないのでRadimichiaやMagyarには兵力で劣っている。戦うには威信500を消費して2,500の兵を動員するディシジョンが必須。
今回も戦は1年で終わった。
天才ツェンイェの軍略によってセヴェリャーネ族の首長・「邪悪なる」イェフィミイは城下の盟を結ばされ、その後キエフの評議会に入るも、屈辱を抱えたまま数年で世を去った。
フセヴォロドはルーシの地を半ば手中に収めていたが、まだ王を名乗ることはできないであろう。北方のラヂミチ族は未だ健在、キエフを南から東を囲むように広がるマジャル族も急速に力をつけてきている。ルーシの王となるには今一度の戦が必要であった。
785年
ペレヤスラヴリの征服
Pereyaslavlははじめマジャル族の領地で、その後セヴェリャーネ族が一時的に征服するも、マジャル族に奪回されている。
フセヴォロドが大首長となって17年目、フセヴォロドは再びマジャル族征討の兵を挙げた。ペレヤスラヴリ地方の回復を名分とした戦である。ペレヤスラヴリは一時、セヴェリャーネ族の領地となっていたが、その後マジャル族に奪われた土地であり、セヴェリャーネ族がキエフの傘下に入った今、キエフにペレヤスラヴリ領有の権利があるのだ。
フセヴォロドはこの戦を領内に触れてまわり、戦への助力を民に願った。特にペレヤスラヴリ再征服を志すセヴェリャーネ族の戦士と、たびたびマジャル族の略奪行の被害を被っているコルスンの若者たちが集い、キエフ戦士団と合わせてフセヴォロドの軍勢は3,500に迫る大軍となった。
ペレヤスラヴリ大首長領2州を獲得するも、Ruthenia王位創設にはあと1州足らず……。
天才ツェンイェは三たび戦に勝った。
マジャル族の弓騎兵は非常な難敵で、マジャル族のカガン・イェネーが軍を維持できなくなっている状態であったにもかかわらず、カガンに服属するポチェプ族のハン・ウドゥンの軍勢を相手に大きな損害を出すことになった。だが、セヴェリャーネ族の戦士とコルスンの若者が踏みとどまり、ツェンイェの軍勢が総崩れになることは避けられた。
会戦の後、ツェンイェはポチェプ族の本拠となっていたコルティツィヤを攻撃し、ポチェプ族のハン・ウドゥンの子デジェーを捕らえることに成功した。これによってポチェプ族とマジャル族は負けを認め、ペレヤスラヴリの地をキエフに譲った。
南の敵は下した。マジャル族はその後、ヴォルィニャーネ族とハザール族に征服されて歴史の波に消えた。
キエフが次に戦うべきは、北の敵・ラヂミチ族であった。
マルフリダの死
特になにも起こらないまま亡くなってしまった。享年33歳。若い。
マジャル族との戦の間に、妻・マルフリダが世を去った。ドゥブロヴィツヤ司祭とキエフ大首長夫人という重責の中で思い悩んでいることが多かったという。マルフリダとフセヴォロドの間には子は生まれなかった。
788年
再婚とラヂミチ族の征服
3人目の妻・アイシェ。
フセヴォロドが大首長となって20年目、フセヴォロドは3人目の妻・アイシェを娶った。アイシェははるか東、カスピ海東岸を地盤とするヤブグー族の一氏族・ボゾク族のハンの娘である。ハンの娘を娶った男という触れ込みに、キエフ近郊の遊牧民の間でフセヴォロドの評判は大きく高まった。
フセヴォロドはめざとくこの好機を捉え、行き場をなくした旧マジャル族を含め、再び領地から多くの若者を集めた。ラヂミチ族はここ数年来、農民の反乱に悩まされており、フセヴォロドの軍勢にはこうしたラヂミチ族の農夫たちも多く流れ込んだという。
Radimichiaと決着をつけるとき!
再び3,500あまりの兵を揃えたフセヴォロドはラヂミチ族征服のために軍を発した。ラヂミチ族大首長・スタニスラフは慌てて軍をかき集めたが、なだれ込むキエフの軍勢を押しとどめることはできなかった。
戦が始まって1年で大勢は決したと思われたが、最後の最後でさらに北のポロツク首長・プクヴェラスがレペリの領有を名分として兵を挙げた。
ラヂミチ族大首長・スタニスラフは1年半でフセヴォロドに下った。ツェンイェは軍を解散せず、そのままポロツクの軍勢をレペリの地で打ち破った。間もなくプクヴェラスは降伏し、2年に及ぶ戦いは終わった。
戦後の領地。黄色い縁取りはRuthenia王位のde jure領。
キエフはルーシの地の大半をその手中に収めた。いまやルーシの誰もが、フセヴォロドをルーシの王と認めるであろう。
だが、うち続く戦のために、キエフの金蔵には戴冠式を行えるほどの蓄えがなかった。王位に就くには今しばらくの時間が必要だった。
フセヴォロドは齢50歳。寿命が来るのが先か、王冠を戴くのが先か……。
次回:キエフ年代記 第3回
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