「Crusader Kings II」プレイリポート:ブリタニア帝国建国記 第14回も、前3回に引き続きBrwynの息子Godwynの治世。
2015/11/5 カテゴリーを変更。
Essex女公爵のKent獲得
981年12月、前回から続いていたEssex女公爵とKent小王の戦争はEssex女公爵の勝利に終わり、またしてもGodwynの甥Rhigeneuが領地を獲得、Rhigeneuにとって3州目の領地となります。後で取り上げます。
また、その後Kent小王国の最後の領地Sussexを西隣のWinchester伯爵が獲得し、Kent小王を僭称します。
他にも、各公爵領内で2州を領有する伯爵が出て、統制に乱れが生じてきています。ブリテン島にはもはや敵らしい敵がいなくなった今、最大の敵は内部にいる、という状況のようです。
そして986年3月、Essex女公爵は、Northampton伯爵Rhobertの請求権をダシに、East Angliaに対して再度の宣戦布告。East Angliaを滅ぼすつもりのようです。
Suffolk・Kent両州への処置
989年6月、宰相がSuffolk、Kent両州への請求権捏造を完了。領有している甥Rhigeneuから両州を取り上げます。
Essex伯爵Rhigeneuを直臣とするようEssex女公爵Nonに命ずると、Nonは反旗を翻します。聞き分けの悪いやつよ……。
Nonとの戦争は問題なく進みますが、なんと首都州Gwyneddにおいてカタリ派が広まるという事態に。反乱が起こったりすれば、ちょっと面倒です。
結局、反乱は起こらないまま戦争末期になって王太孫の小GodwynがGwyneddを改宗し、幸いなことにその後も反乱は起こらないまま落ち着いていました。
993年4月、ようやくEssex女公爵に勝利。4年近くもかかってしまいました。しかし、甥Rhigeneuを直臣にすることはできました。
RhigeneuからSuffolkとKentを取り上げようとすると、Suffolkは応じてくれましたが、Kentを取り上げる段になって反乱を起こしてきました。正当な所有者たる王の手に帰すべき土地だというのに、なんと強欲な甥なのでしょう。教育してやる必要があります。
994年8月、Rhigeneuを下してKentを獲得。赤子の手をひねるようなものです。
Suffolk伯爵には、七男Fyrsilを。
Kent伯爵には、八男Bedwyrを、それぞれ封じます。さらに、East Anglia公爵位が創設できたので創設し、Fyrsilに与えます。
これでとりあえずは一件落着となりましたが、今度はWestmorlandに封じた四男SieffreがYorkを獲得しようとして戦争していたりと、もうやりたい放題。賽の河原で石を積んでいるような徒労感があります。
聖地イェルサレムへの十字軍
995年2月、教皇Anacletus2世は聖地イェルサレムへの十字軍を宣言。今回で十字軍は第3回。第2回十字軍によって南仏はキリスト教徒の手に戻りましたが、今回はどうなるか……。
我がBrythoniad王国からも、多くの公爵たちが十字軍に参加していきましたが、戦況は芳しくない模様。
Godwynの死
997年3月、Lloegyr(イングランド)の地を制覇し、Lloegyr王にも就いた偉大なるBrythoniad王Godwynが死去。享年77歳。王としては57年もの長きにわたってBrythoniad王国を率いて戦いました。
そして、まったく同じ日にGodwyn王が養育していたGodwyn2世の子Brwynが成人。愛するひ孫の成人を見届けて逝ったことでしょう。
新たな王太子Brwynはご覧のありさま。お世辞にも有能とは言いがたい能力値です。さらに悪いことに、”虚弱(Weak)”持ち。
新たなBrythoniad王Godwyn2世は管理能力・外交能力ともに高いとはいえないものの、先代までとは違って陰謀能力が高め。しかし、こちらも有能とはいえません。
この先、Brythoniad王国は一体どうなってしまうのでしょうか……。
といったところで、今回は短めですがここまで。第15回はGodwynの孫Godwyn2世の治世。
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