「Crusader Kings II」プレイリポート:ブリタニア帝国建国記 第11回は、Brwynの息子Godwynの治世。
2015/11/5 カテゴリーを変更。
三男誕生
943年7月、三男Rhobertが誕生。母親の美貌はなかなか遺伝しませんね。
ロラード派の勃興
943年12月、Wiltshireにてロラード派(Lollard)が出現。反乱リスクが急上昇します。
Wiltshireはちょうど100年前、3代前の王Edernの時代にカタリ派が興ったErgyngの近くです。この辺りは聖職者がひどいやつとか、そういう異端思想が興りやすい環境があるのでしょうかね?
史実のロラード派は、オックスフォード大学の教授だったウィクリフの主張から出た、14世紀中頃に発生した宗教改革運動のことなのだそうです。ウィクリフの主張は14世紀末~15世紀初頭のフス派、そして16世紀の宗教改革にも影響を与えたそうな。
ロラード派は教会財産への課税を主張したために、教会からの課税収入を得ようとした貴族たちに支持されたようですが、このゲームではさしたる障害もなく教会に課税できてしまうので、容赦なく改宗させていこうとこの時は思いました。思いましたが……。
カトリックの道徳的権限(Moral Authority)はなんとわずか29.7。カトリックが聖地を3つしか支配していないとか、対立教皇(Anti Pope)が立てられているとか、十字軍が敗退したとか、諸々の事情が重なり、カトリックは危機に瀕しています。
一番影響が大きいのは対立教皇で、これだけで道徳的権限が-30されています。立てているのは西欧の雄West Francia。一番面倒くさいやつが立てていました。対立教皇を廃位させるために戦争を仕掛けることもできますが、West Franciaと争う元気はBrythoniadにはありません。動員可能兵力でも負けています。
ちなみに、我がBrythoniad王国も対立教皇を立てることができますが、立てるとカトリックの道徳的権限は文字通り地に落ちる(0になる)ので、あんまりよい手とは言えません。
世界を見回すと、南仏からイベリア半島に点々とロラード派、スコットランド・ヴェネツィア・ロシアに細々とワルドー派(Waldensian)、バイエルン辺りにフラティチェリ派(Fraticelli)といった具合に、徐々にカトリックの異端が現れています。それもこれも、すべてカトリックの道徳的権限が低いせいです。道徳的権限が低いと改宗も上手くいかないため、こうした異端が消滅せずに生き残っているわけです。
いっそのことロラード派を奉ずるという手もありますが、それはそれで家臣と領地をすべて改宗して回らないといけないわけですから、大変な労力です。またカトリック勢力が盛り返してきた際に、十字軍を発動されるかもしれないリスクもあります。
ここはロラード派を押さえこむように動きつつ、広まってしまったらそれを受容することにしましょう。
……なんてことを言っていたら、946年にはLeicesterにも飛び火。ブリテンの信仰はいったいどうなってしまうのか、と心配していたところ……。
宮廷司祭にして王の友人Gwilymが、Brythoniadにおける異端の根拠地Wiltshireを見事に改宗してみせます(この時道徳的権限が44まで回復していたのもありますが)。
しかし947年7月、農民反乱が勃発。Wiltshireの大部分がカトリックに改宗したとはいえ、どこかにまだ潜伏していたのでしょう。
反乱軍はBrythoniad軍5,000によって翌月には鎮圧され、首謀者は処刑されました。
妻の死と再婚
946年5月、妻Amalbergaが肺炎で死去。27歳でした。
新しく娶った妻は、母Elenと同じYnys Manaw首長家であるCe家出身、現Ynys Manaw首長Maelchonの四女Sionedです。母方のいとこにあたります。
同性愛者なので妊娠確率は下がりますが、若さと管理能力の高さには代えられません。前妻は若死でしたので、彼女には長生きしてもらいたいものです。
結婚から4年目の951年4月、Sionedとの間に四男Sieffreが誕生。
領地を継がせる子供が増えるのは結構なのですが、この頃は宰相による請求権捏造がうまくいかず、新たに獲得してくる領地がない状態が続いています。
Hwicce公爵’肥満公’Edern3世のBedford獲得
953年、Hwicce公爵がEssex小王の領地であるBedford(Oxfordの東)の請求権を主張してEssex小王に宣戦を布告します。
王としては特に問題も感心もなかったので放置していたのですが、954年1月、Hwicce公爵が勝利してBedfordを獲得してきてしまいました。こうなるとちょっと困ります。というのは、封臣たちにはこれまですべて1州のみを領有させてきていたからです。
というわけで、取り上げるべく宰相を派遣しましょう。貴族たちが強い力を持つ必要などありません。彼らは「王の代官」にすぎないのですから。
954年5月、宰相が請求権を捏造してきたので、Hwicce公爵からBedfordを取り上げます。反乱に備えましたが、Hwicce公爵はあっさり承諾(はらわたは煮えくり返っているとは思いますが)。
Bedford伯爵には、Godwynの異母兄弟Moryddを封じます。
Lancaster獲得
954年になって急に宰相の調子がよくなったのか、Bedford伯爵領に続いてLancaster伯爵領の請求権も捏造することに成功します。
954年12月、Lancasterを領有するNorthumbria公爵に宣戦布告。開戦劈頭Northumbria軍を撃滅します。
と、そんなことをやっている間に今度はOxford伯爵がEssex小王からNorthumptonをもぎ取ってきたようです。もちろん後で取り上げます。
Northumbriaは主力を全滅させられたため、傭兵を雇いましたが、これも6,000のBrythoniad軍の敵ではありません。この傭兵を殲滅すると、Northumbriaはもう音を上げてしまいました。
戦争に勝利。Lancasterを獲得しました。
Lancaster伯爵には、先王Brwynの庶子から嫡出子化されたEliseddを封じます。領地を配る親族は、まだGodwynの息子が長子を除いて3人いますので、どんどん領土を広げていきましょう。
East Francia女王からの援軍要請
Northumbriaとの戦争が終わって間もない955年6月、少し前にBedford伯爵に封じた異母兄弟Moryddの義理の母である、East Francia女王Austrechildから援軍要請が来ます。援軍要請に対しては、夫の実家に援軍要請を断られて涙を飲んだ女王Denisの苦い経験から、なるべく応えるようにしています(実際に兵を出すかは別)ので、今回も承諾。
East FranciaとAlemannia公爵との戦争に参戦しましたが、見てみるとEast Francia女王側が西欧の有力な王を軒並み動員するという様相。我がBrythoniadのほか、West Francia、Middle Francia、Italyと、East Franciaも含めて総勢5人の王が1人の公爵を寄ってたかって殴り倒すという戦争でした。
というところで今回はここまで。次回も’寛大王’Godwynの治世。
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