「Crusader Kings II」プレイリポート:ブリタニア帝国建国記 第9回は、Elystanの息子Brwynの治世。前回までで、ブリテン島のおおよそ1/3くらいは平定できたところです。
2015/11/5 カテゴリーを変更。
妻の暗殺
前回、後継者となっている一人娘がちょっとマズいということを述べましたが、彼女が跡を継ぐのを回避するには、Brwynに息子ができればいいわけです。ですが、キリスト教では妻は1人のみ。ということは……。
不幸にも肥料が突然爆発してそれに巻き込まれたという体裁を取りたかったのですが、バレちまっちゃあしょうがねえ。年老いた嫁にゃあ死んでいただきやす(二人は恋人関係だったので、本当に鬼畜の所業ですが……)!
後妻にはYnys Manaw(現在のマン島)首長Dafyddの四女Elenをもらいました。このDafydd首長、非常な子だくさんで、全部で15人子供がいるという元気な爺さんです。しかも正妻が産んだのは4人だけで、あとはすべて庶子。ElenもDafydd首長が女官に産ませた庶子です。
Elenを選んだのは、Gwynedd家にケルト顔を復活させたかったのと、若さです。若さは大きな財産です。
母Melisandeの陰謀
若い妻をもらい、懲りずにやってくるヴァイキングと戦いながら日々を送っていると、密偵長から「王太后がWarwick伯爵の暗殺を企てている」との報が。Warwick伯爵Goronwyは先王Elystanが女官に産ませた庶子ですが、「領地を配る親族がいないから」という理由で嫡出子化された腹違いの弟。やはり先王の妃としては思うところがあったのでしょう。
しかし投獄。いくら母とはいえ、親族を殺害する企てを見過ごすわけにはいきません。母、いや、この女を王国から追放しなければならないのです(200近い金を貯め込んでいたので、国庫が潤います)!
領地の分配
さて、BrwynがBrythoniad王を継いで以降、Brwynの宮廷には土地を与えられるような親族がいないため、領地上限を2つ超過した状態(ついでに公爵号も3つ保有している状態)が続いていたのですが、いいかげん封臣たちに愛想を尽かされてしまいそうですので、ここらで宮廷外の親族にも土地を分配してしまうことにします。
Brwynが先王Elystanに封じられたWessex公爵・Somerset伯爵には、前Hwicce公爵Edern2世(先王Elystanのいとこ)の三男Cadogを。
対Mercia戦で獲得したMercia公爵領のうちの一州Worcesterには、前Wiltshire伯爵’淫蕩伯’Sandde(こちらも先王Elystanのいとこ)の四男Iorwerthを、それぞれ封じます。
これで封臣たちの機嫌もよくなり、収入も正常な値に戻りました。
男子誕生
920年1月、Brwynに待望の男子Godwynが誕生。これで不出来な娘Heleddに王位が渡ることはないでしょう。彼女には一廷臣の妻として、幸福に暮らしてほしいものです。
さらに927年12月、次男Gwalchmai誕生。これでGwynedd家の本家も安泰でしょう。
Derby伯爵家の取り潰し
先王ElystanがMercia小王国を併合した戦争で、請求権を持っていなかったためにAnglo-Saxon人の領主がそのまま温存されていたDerby伯爵領に対し、920年3月、Brwynは請求権を捏造することに成功。Derby伯爵Werestanに対して称号取り上げを通告しますが、当然のごとくWerestanは拒否し、反乱を起こします。
Werestanは軍事能力28の化け物ですが、Brythoniad軍の数の前には無力です。危なげなく勝利し、Derby伯爵領を獲得。
Derby伯爵領は2代前のDeheubarth公爵Dyfnarth1世(曽祖父にして2代前の王Edernの弟)の孫Cuhelynに与えます。
この頃はだんだん人材が枯渇してきていて、こんな遠い親族にも領地を配るはめになっています。また、能力の高い廷臣も減って、評議会は平凡な能力値の閣僚ばかりです。
十字軍始動
チュートン騎士団、ホスピタル騎士団、サンティアゴ騎士団、カラトラバ騎士団と、4つの騎士団が相次いで設立された後の921年10月、時の教皇Clement2世は後ウマイヤ朝に支配されているアキテーヌ(南フランス)への十字軍を呼びかけました。史実より150年ほど早い十字軍の始まりです。
もちろん我がBrythoniad王国は参加しません。兵を出す余裕はありますが、負けた場合は戦費が丸損ですし、万が一勝って戦勝点1位になってしまうとアキテーヌがまるまるBrythoniadの領地になってしまいます。そんな遠隔地の管理をする余裕はさすがにありません。なので参加は見送り。
……と思っていたのですが、封臣たちは続々と十字軍に参加していきます。領土に襲来するヴァイキング撃退もやらないといけないので、王国としてはやはり参戦しません。
家臣たちが参戦しているので気になってたびたび様子を見ていたのですが、こちらが連携のとれていない連合軍であるのに対し、後ウマイヤ朝は一枚岩なので、キリスト教の軍は小勢力で当たっては敗退するという定番の負け方を繰り返します。さらには、参加した家臣たちが次々と戦死するというひどさ。
926年7月、結局アキテーヌへの十字軍は失敗に終わりました。
Middlesexの獲得
Brythoniad王Brwynは、Wessex公爵時代にMiddlesex伯爵領への請求権を獲得していたようなので、ここらでサクッといただいておきましょう。本来ならDerbyの属するLancaster公爵領の攻略を優先させるところですが、Brwynも齢50を超えて、これから何があるかわかりませんし。
というわけで、926年4月、Middlesexを領有するブリテン島東部のEast Anglia小王Brenciに宣戦布告。
当然のごとくサクッと勝利。Middlesexを獲得します。
Middlesex伯爵には、3代前のHwicce公爵Cedig(Brwynの大叔父)の次男Pasgenを封じます。もう50歳と高齢ですが、息子が2人いるので後継者も問題なし。
3度目の結婚
930年7月、2番目の妻Elenが29歳で病死したため、3度目の結婚をします。
3番目の妻は、アイルランドのConnachta伯爵Finnbarrの娘Derbail。既に34歳ととうが立っていますが、子供はできればラッキー程度にしか考えていないので構わないでしょう。
Chesterを巡る戦争
930年10月、宰相がウェールズ北東部に隣接するLancaster公爵領の一州Chesterの請求権を捏造することに成功。さっそく獲得のためにNorthumbria小王Aethelbaldに対して戦争を起こします。
開戦直後に、先にMiddlesexをBrwynに奪われたEast Anglia小王も参戦。Northumbria小王の息子の嫁がEast Anglia小王の娘だったようです。が、Northumbriaとは距離があるため、Brythoniad軍4,000の迅速な機動によって合流前にNorthumbria軍4,000が壊滅。それを見たEast Anglia軍2,000は自分の領地に引き返します。
Northumbria軍主力は既に全滅したため、Brythoniad軍はこれを追撃、Essexの司教区Walthamにて捕捉・撃滅します。
ここらで悪逆なるヴァイキングどもが戦時につけ込んで襲撃してくるようになったため、傭兵を雇って迎撃させることに。
しかし、ここでDerby伯爵が王位への請求権を捏造しているとの知らせが入り、逮捕しようとしますが失敗。Derby伯爵は反乱を起こします。
Derby伯爵の軍勢を鎧袖一触で撃ち破った後、Derby伯爵領での包囲戦は手の空いた傭兵に任せて、本隊はChesterの包囲戦に入ります。
932年7月、Derby伯爵の本拠地Derbyが陥落し、Derby伯爵Cuhelynは逮捕されました。Brwynによって伯爵に取り立てられたというのに、なんと恩知らずなやつでしょうか。
新しいDerby伯爵には、先々代の王Edernの甥Cydiforの孫Caswallonを封じます。現在の王Brwynから数えると8親等なので、もはや他人ですね。
932年12月、Chesterの都市Macclesfieldを攻略したことで、戦争が終結。無事にChesterを獲得しました。当初は余裕だと思っていましたが、Northumbria軍がほぼ同数だったり、傭兵隊が負けそうになったりと、危ない場面がけっこうあった戦争でした。
獲得したChesterには、まだ4歳の次男Gwalchmaiを封じておきます。
というところで今回はここまで。次回もElystanの息子Brwynの治世が続きます。
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