「Crusader Kings II」プレイリポート:ブリタニア帝国建国記 第20回は、Godwyn4世の子Gwriad2世の治世です。なお、この回の途中からCK2のバージョンが2.3.5にアップデートされていますが、EU4へのコンバータの更新ですので、内容に変更はありません。
2015/11/5 カテゴリーを変更。
後継者の誕生
先王から引き継いだKent公爵との戦争の最中である1086年1月、長男Godwynが誕生。またGodwynか!
Kent公爵の内乱とGlamorgan伯爵領
Gwriad2世が先代から引き継いだKent公爵との戦争は、1086年12月、Kent公爵を下して終結します。
戦争中に宰相がGlamorgan伯爵領の請求権を捏造してくれたため、さっそくGlamorgan伯爵領を領有するSussex伯爵を直臣にし、Glamorganを召し上げます。
新たなGlamorgan伯爵には、妹Gwenaseddの婿Gronwを任命します。
王権強化
1088年9月、技術の”法治主義(Legalism)”がレベル5に達し、絶対的王権(Absolute Crown Authority)と中央集権体制(Centralized)が可能になりました。
まずは王権の強化を図ります。絶対的王権の状態になると、もはや家臣たちは独自に戦争を起こすことはできなくなります。これで、勝手に外征して領地を切り取ってくることもなくなります。
次に中央集権化。直轄領を増やせるようになりますが、管理できる封臣が減ります。Lloegyr(イングランド)が多くの公爵領を抱えているため、中央集権体制にすると封臣の上限を超過した状態になってしまいます。
領地と封臣のやりくり
現在、直臣は公爵12名、伯爵2名の計14名。中央集権体制に変更すると封臣上限は12。伯爵2名はいずれ公爵にまとめられるため、これで-1。もう1名減らさなければなりません。
封臣のやりくりだけでは、状況の解決は無理そうです。王の所領の変更の必要があると思いますので、王の保有する称号を見てみましょう。
現在Brythoniad王が保有するのは王位2つ、公爵位2つ、伯爵位5つ、男爵位2つ。
男爵位は領内に建設した男爵領をそのまま保有しているものです。領地が小さくまとまって戦争の際に兵を集めやすいのでこのようにしていたのですが、これを考えなおすべきかもしれません。というのは、封臣上限には男爵レベルの封臣は算入されないからです。つまり、男爵領を手放してその分伯爵領を保有することにすれば、公爵を一人取り潰すことが可能になるのです。
例えば、現在領有している男爵領2つを手放すと領有する所領は5つ。中央集権体制に変更後の領有上限は9なので、王が領有しているGwynedd・Powys両公爵領の南、Deheubarth公爵領の3州を王が領有しても所領は8つ、領有上限内です。そしてDeheubarth公爵を取り潰すことができ、(伯爵2名が公爵1名にまとめられるとすれば)封臣は12名に。封臣上限も解決できます。
ただし、王がDeheubarth公爵位を保有すると、公爵位の持ちすぎで封臣から反発されてしまいます。そのため、Powys公爵位を廃止(destroy)することになるでしょう。
また、もう一点。York公爵領とEast Anglia公爵領はともに2州のみのため、この2つの称号を一人にまとめることで、さらに封臣を一人減らせます。
出口戦略との見合い
集権化を進める場合
しかし、封臣上限に空きが1つできたところで、今後のスコットランド征服を考えるといずれ無理が出てきます。
スコットランドには6つの公爵領があり、そのうち1つは既に考慮済みとして、もう1つは空きに算入するので、残り4公爵領。これ以上封臣上限を増やすにはBritannia皇帝位を創設する必要がありますが、計算したところ、皇帝位の創設にはスコットランド全土の制圧が必要でした。つまり、4公爵領については現在の封臣上限でがんばる必要があるわけです。
上限を超過した封臣は代替わりの際に配下から離脱されるルールだったはずですので、一代のうちにスコットランドを征服してしまうというのも考えましたが、請求権の捏造にかかる時間を考えると、一代でスコットランドの4公爵領すべてを征服するのには無理があります。
……と、ここまで考えたところで、薄々感づいていましたが、中央集権体制に変更するのはどうやら無理筋らしいと結論しました。
現状維持→分権化の道
では現状のままであればどうでしょうか。現状のままだとすると、封臣上限は17。現在の封臣は14。仮にスコットランド全土を制圧すると+5で封臣は19。超過分が2出てしまいます。
とすると、どうやら中央集権を強化するどころか、スコットランド征服終盤には一旦分権体制に振らなければならないことになりそうです。
現状から分権体制に一段動かすと、直轄領の領有上限が1つ減るので上限が7。現在の領有が7でちょうどいい感じ。ですが、これはGwriad2世の管理能力が9であり、さらに妻の管理能力ボーナスも加わっているから維持できるのであって、後継者の管理能力によっては現在の領土すら維持できないこともありえます。
が、維持できない場合は男爵領を手放せばいいですし、また領有上限が上がれば男爵領を召し上げればよいでしょう。そういう意味では、男爵領はバッファとして使い勝手がいいかもしれません。
それから、集権体制を維持するために領地を召し上げたりするのが、正直めんどくさいというのもあります。そんなことをやっているヒマがあったら、どんどんスコットランドを制圧してBritannia皇帝位を創設してしまうほうが早道でしょう。
結論
というわけで、ここまで長々と説明してきましたが、今後の方針としては「集権度は集権化せず現状維持。必要になれば分権方向へ動かす。そしてBritannia皇帝位創設を急ぐ」ということにしました。
Essex公爵の罪
1093年9月、Essex公爵Ffwdwr2世がまだ12歳のErclwfからBedford伯爵領を剥奪するという事件が発生。Essex公爵は王国の秩序に対して挑戦したい人物のようです。当然、Essex公爵に対して懲罰を実施しなければならないでしょう!
ロラード派の蔓延
しかし、なかなかBedfordへの請求権を獲得できないでいたところ、1107年8月、Bedfordでロラード派が蜂起します。これはすぐに鎮圧できましたが、1109年1月には国王直轄領のPengwernにもロラード派が飛び火。
確認すると、聖地ケルンがロラード派の手に落ちていること、また、ロラード派の反乱軍がどこかで勝利したことなどで、カトリックの道徳的権威は50前後に低下していました。
さらに1113年8月、首都州Gwyneddの隣のPerfeddwladまでもがロラード派に染まりました。ブリテンの信仰はどうなってしまうのでしょう……。
再婚
※ここから2.3.5にアップデートされました。
1111年12月、妻Nestが病死。50歳でした。
後妻にはSuffolkの司教Harriの一人娘Machesを娶ります。East Anglia公爵の家系出身です。
我がGwynedd家は、死亡した者も含めればこの頃には1,700名、現在生きている者だけでも500名を数える大きな一族となっており、カロリング(Karling)家よりも大きな家になっていました。
外征
1115年7月、Essex公爵のBedford問題、そしてYork公爵配下のLincoln伯爵がDerbyを継承してしまった問題というふたつの国内問題を抱えたまま、スコットランドへの征服戦争に臨みます。
というのも、1115年に入って突如としてヨムスヴァイキングがスコットランドの一部を占領し、我がBrythoniad王国が攻略を進めていた公爵領の一州も占拠したのでした。ヨムスヴァイキングはGermanic信仰の宗教騎士団という扱いですので、信仰も当然異教。つまり、聖戦の発動によって開戦することができます。
1116年2月、無事に勝利してLothian改めLleuddiniawnを獲得。次男ArthfoddwをLleuddiniawn伯爵に任命します。公爵位は保有している領主が戦争中のため、それが終わってからでないと剥奪できませんが、まあ時間が解決する問題です。
というわけで、今回はここまで。第21回もGodwyn4世の子Gwriad2世の治世です。
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